斉藤 日出夫の論文書庫

著作権のこととかは知らない。あと、査読中のものも含まれるけど、たいてい「未発表のものに限る」とか書いてあるが、ここに発表するのはそれに含まれるのかいなか、よくわからない。投稿した後ならいいのかどうか。まあ、問題が発生したらそれはそのとき、ということで。


【論文】

1) 2004、「信頼・不安・無気味:ルーマンの〈信頼〉概念と〈生活世界〉概念」『現代社会理論研究』(14).2005/07/05 update

【要約】

本稿の第一の目的は、「不安論」をストーリーとして、ニクラス・ルーマンによる〈信頼〉概念および〈生活世界〉概念の位置づけ・概念連関を明確にすることにある。ここでいう不安論とは、アンソニー・ギデンズが彼の信頼論において準拠している問題である。ギデンズはその信頼論を展開する上で、ルーマンへの批判をモチーフとしており、そこには多くの誤解や概念連関のズレが散見される。しかし本稿は「ルーマン信頼論」を擁護する立場からの「ギデンズ信頼論」批判を行なうものではない。そこにある誤解やズレの多くは、ギデンズが依拠している図式・ストーリーから必然的に導かれているものだからであり、そもそも依拠している図式が異なる議論の優劣を判断することはできない。ここで試みるのは、いったんルーマンの議論の組み立てを解除し、ギデンズの準拠問題にのっとり、ルーマンの用いている諸概念をそこに配置していくことである。そのとき、ギデンズは論じるべきだと考えたがルーマンが論じなかったこと、あるいは、ギデンズにはルーマンが論じていないように見えたこと(いわば不安論というストーリー上の「空白」)にルーマンはどのようにアプローチしうるのか(アプローチするだろうと考えられるのか)といったことが明らかになるだろう。あるいは、そのストーリーには収まらない剰余が明らかになるだろう。おそらくルーマンの議論の可能性はそこにある。そのうえで、本稿の第二の目的として、ルーマンの議論がギデンズの議論が依拠している図式に対する(「ギデンズの議論」に対してではなく!)批判として成り立っているということを明らかにする。

本稿は、「信頼」「不安」「無気味」の三つのパートから構成される。まず、ギデンズの信頼論をルーマン批判の要点を中心にとりあげたうえで、ルーマンの信頼論を整理する。次にギデンズの信頼論の根幹である〈実存的不安(existential angst)〉の議論を概観し、ルーマンの「空白」を検討する。最後に、ルーマンの信頼論および生活世界論において重要な概念である「馴れ親しみ(Vertrautheit/familiarity)」の対義語を「無気味なもの(Unheimlichkeit/unfamiliarity)」と読みかえ、ルーマンの議論を一貫したものとして呈示してみせる。そのうえで、ルーマン理論がギデンズの(あるいは彼が依拠する実存主義哲学の)図式に対する批判として読めることを示す。

2) 2005、「身体論の社会学的観察」『三田社会学』(10).2005/07/05 update

【要約】

本論文の目的は、「身体論」とよばれうる領域を、社会学的に観察することにある。したがって、この論文で展開されるのは、「身体論」でもなく「身体社会学」でもない。そうではなく、〈身体〉という一種独特のタームをめぐっておこなわれる議論を対象に、外部観察者として観察することが目的である。その対象となる議論には、「身体(の)社会学」も含まれる。〈身体〉というタームを「一種独特の」といったのは、それが社会学(にとって)の臨界点となるようなものとして機能するように位置づけられているからだ。

本稿では、〈身体〉をめぐって/テーマにして行なわれるコミュニケーションの総体を「身体論」とよぶことにする。

プラトンが「視覚や聴覚は、人間になんらかの真実を教えるのか、それともその点についてなら詩人でさえ、いつもくりかえしわれわれに語ってくれているのではないか、われわれの見聞きすることは何一つ厳密ではないと。……ではいつ魂は真実に触れることができるのか。肉体と共に何かを探求しようとするときには、肉体によって欺かれるのは明らかである」(『パイドン』〔65B〕)と述べてから(いわゆる「身体は魂の牢獄である」テーゼ)、フーコーが「ある政治解剖の成果にして道具たる精神、そして、身体の監獄たる精神」(Foucault 1975=1977: 34)と述べるまで、およそ2400年が経過している。そのあいだには中世哲学があり、デカルト・カント・観念論があり、ニーチェ、生の哲学、メルロ=ポンティがある。それらすべての議論をここで見通すことはできない。ゆえにここでの「観察」は必然的に、単純化(複雑性の縮減)であることが避けられない。

本稿は「身体論‐の」社会学であると同時に、「身体‐の‐社会学」を社会学的に考察する(先に「身体論」には「身体(の)社会学」が含まれると述べた)。再び確認しよう。ここでの目的は、「社会学が〈身体〉を扱うとき、そこでなにが為されていることになるのか」あるいは「〈身体〉に依拠して〈社会〉を語るということはいかなる営みであるのか」という問題を考察することである。それはいわば、〈身体〉を語る語り手(以下、これを〈身体〉を観察する観察者とよぶことにする)を社会学的に観察する試みである。

あるいはこのように言うこともできる。「社会学が〈身体〉を観察するのを観察する、社会学による自己観察」であると。このとき、社会学のアイデンティティが観察されるだろう。馬場靖雄にならって言えば、社会学というコミュニケーション(作動)のネットワークは無限に錯綜しており、「そのようなネットワークそれ自体を同定することは不可能である。それゆえに……自身を観察しつつ、自己のアイデンティティを確定しようとする」(馬場1996: 149)複雑性の縮減としての「自己観察」をおこなおうというわけである。ゆえに、この論文は、多様な学的コミュニケーションのネットワークを単純化(複雑性の縮減)するというリスクを負っている。そのリスクと引き換えに、ここでは社会学のアイデンティティを積極的に呈示してみたい。


【修士論文】

0) 2000、「セクシュアル・マイノリティのアイデンティティ・ポリティクスについて」ver.1.1平成11年度 修士論文(WEB版)2006/06/13 update

これは慶応大学大学院社会学研究科社会学専攻に1999年度修士論文として提出したもののWEB版です。タイトルに「ver.1.1」とある0.1は、WEB版のために構成・編集したさいに若干の修正を行った「差分」を表現している。

若干の修正は、たとえば「ホモセクシュアリティ homosexuality」と記述していたものを「ホモセクシュアリティ(homosexuality)」としたり、傍点をBタグで太字にしたり、全角数字を半角にしたり、機種依存文字を別の表記法に直したり、明らかな誤植・誤表現を訂正したり、といった程度のもので、内容上の変更はまったく行っていない。

2004年論文や2005年論文を読めばわかるように、ぼくの、理論上の方向性はまったく異なってしまっており、また、今現在(2006年6月)の理論的立場も以上のもの(04年、05年のもの)と大きく変化しているため、「これが答えだ!」とは胸を張って言えないものの、署名したことに対する責任は受けるつもりである。この文章に対する批判は当然歓迎するが、それに対する反論等は、完全に現時点の観点からのものになるため、安易な前言撤回や、議論の噛みあわなさなどはご容赦願いたい。

また、ジェンダー論/セクシュアリティ論というディシプリンからいえば、この論文を書いた時点においてさえ、相対的に「古い」議論を行っていると思われる。そこは承知してはいるが、「それって古いよ」という指摘は、ひょっとしたらぼくが見落としてしまっている(気付いていない)「古さ」である可能性があるので、非常にありがたいものです。宜しくお願いします。逆にいえば、これから修士論文等を書く方などは、「現時点ではこれは相当古い」ということを念頭においていただければ、なんらかの目安として機能するのではないかと考えます。


【私試訳】