第1章 ホモフォビアについて

今世紀の前半にはその存在すら認められなかった日陰の者、治療すべき異常者、社会の〈逸脱者〉というスティグマを負わされていたものたちが、一義的なスティグマをはねのけてその存在と声を獲得し、逆に社会の側を「問題」とすることで、レズビアン&ゲイ・スタディーズにおける学問的蓄積がなされてきた。

社会のいたるところで、ある種の性的指向をそなえたものに対する嘲笑、侮蔑、嫌悪感の表明を耳にすることができた。彼/彼女らは、邪悪な者として扱われることに慣れ、自分をそのようにまなざすことを内面化すらしていた。だが、彼/彼女らの感情のなかには、もとから邪悪なものなどなかったのである。たんに、そのような「まなざし」、あるいはそのようにまなざす「作法」があるだけなのだ。性的少数者たちには、社会から与えられた言葉や表現を用いては、自分たちのリアリティをくみ取ることができなくなっていたのである。

それでは、そのような「まなざし」をそなえた社会とは、いったいどのようなものなのか。どのような社会構造がその「まなざし」を可能にし、必然的で自然なものであるかのように条件づけているのか。レズビアン&ゲイ・スタディーズは、同性愛を「問題」としてまなざす社会に対抗し、同性愛嫌悪症(homophobia)という「病気」のほうを問題視する。あるいは、同性愛への差別的なまなざしを可能にする社会構造を強制的異性愛主義1 (hetero sexism)とよんで、問題視する。課題は、ホモフォビックな社会の分析である。

この章では、フーコー以来の構築主義的な社会分析を概観したい。第1節では、〈同性愛〉カテゴリーを可能にしたセクシュアリティという制度(装置)が、近代に固有の特殊な働きをする、権力の準拠点を生産するものであるという基本的なテーゼを整理しておきたい。第2節では、1節の議論を引きついで、強制的異性愛主義が構造的に作動するそのメカニズムを論じる。

第1節 セクシュアリティの近代

1-1-1. セクシュアリティの発明

Foucault[1976]以降のセクシュアリティ研究によって、〈同性愛〉(homosexuality)が19世紀に西洋で作られた歴史的なものであることが明らかとなっている2 。それは、同性との性交渉がそれ以前にはなかったという意味ではない。行為としての同性愛行為はあらゆる文化・歴史において存在していたとしても、行為の「原因」を「性的指向性(sexual orientation)」として人間の「内面」に帰属することが、近代に固有の特殊な作法だということである。

たとえば1631年に男色の罪で裁かれたキャッスルヘヴン伯爵は、自分からも他者からも、ある特殊な性的指向をそなえた個人であるとは理解されなかった。彼はたんに神の法およびイングランドの法を犯した法的主体でしかなかったのである(Rubin[1984=1997:112])。この伯爵の行ったソドミー行為(男色)は、法的・宗教的コードによって「逸脱」と名指され、規制を受ける。伯爵は、ソドミー行為を行った「ソドマイト」という罪人なのだ。ところがこの(17世紀の)コードは罪人の「内面」を問うことはない。《ソドマイトの場合、ソドミーという罪ある行為を実際に行っている人間がそう名指される。したがって彼がその行為を(改悛などによって)やめたとき同時にソドマイトであることをやめる。他方で同性愛者は同性愛的活動をやめたからといって同性愛者であることをやめるわけではない》(酒井隆史[1995:168])。セクシュアリティは、主体の内面にあらかじめある決定機関であって、性的活動・行為はその表出であるとみなされる。同性と性的な関係を持ったことがなくても、あるいは生涯にわたって異性と関係を持ち続けても、彼/彼女が同性愛者(homosexual)であることには変わりないのである3

フーコーは、同性愛の誕生を、1870年というはっきりとした日付けを持つものであるとのべている。《19世紀の同性愛者は、一個の登場人物となった。(…)彼の内部の至るところに、彼の性的欲望(sexuality)4 は現前している。それは彼のあらゆる行動の内部に隠れている、というのも、それは彼の行動の油断のならぬ、無際限に積極的な原理に他ならないからだ。(…)かつてソドマイトは性懲りもない異端者であった。いまや同性愛者は一つの種族なのである》(Foucault[1976=1986:55-56])。

近代固有の「セクシュアリティ・コード」を歴史的に相対化するため、酒井[1995]の整理に拠って、(1)古典古代の「倫理コード」および、(2)キリスト教的伝統における「宗教的・法的コード」と比較してみよう。

(1) 古代ローマと古代ギリシアにおいて問題とされたのは、同性愛それ自体ではなく、性行為の際にその人間が自由(能動的)であるか、受動的な行為者にすぎないかどうかである。この〈能動/受動コード〉は、〈倫理的・道徳的コード〉であった。受動的な快楽の享受は、「節制の欠如」さらには市民としての「責任」の欠如とみなされた。《古代ギリシアにおけるセックスは、(…)個人の社会的地位の表明であり、社会的アイデンティティの宣言であった》(Halperin[1990=1995:54])5

(2) キリスト教は、その歴史全体にわたって同性愛行為を規制したわけではない。たとえば中世初期には、男性間の、婚姻に似たキリスト教の儀式が存在した。しかし中世の終わりまでに、カトリックの世界では〈生殖/生殖外コード〉が受容されていたとみてよい。「ソドミー」というスティグマ・カテゴリーの成立である。

酒井は、「ソドミー」を「男色」と訳すことを誤りだとしている。ソドミーは男性間の性的行為のみを意味しているのではなく、ヨーロッパのキリスト教的伝統における〈法的・宗教的コード〉(=生殖/生殖外コード)に照らして「自然に反する行為」──具体的には婚姻外・生殖外の文脈における精液の放出──に対して付与されるスティグマである。それは婚姻外の性的活動、婚姻内での生殖を「目的」としない行為(口腔、肛門性交など)、獣姦などを含んでいたのだ。ソドミー「行為」は、社会的秩序にとっての脅威とみなされていた。逆にいえば、脅威となるような「行為」さえしなければなにも咎められることはなかったのである。

18世紀以降、徐々に〈宗教的・法的モデル〉から〈病理モデル〉が分化する。同性愛を生み出した──いいかえるなら〈異性愛/同性愛〉という人間の「内面」を問うコードを発明した──のは、19世紀の性科学である。以後、医学的知、医療機関、家庭、教育機関などが全体として「セクシュアリティ」という準拠点を巡って配置され、装置(dispositif)として規制・管理しはじめる。同性愛者たちは、法的主体(犯罪者)から、治療されるべき病理に転換したのである。

社会が個人の「生」=「内面」には無関心であることが、性に関する法的・宗教的コードを帰結していた。しかし、セクシュアリティ・コードによって社会は「生」に介入しはじめる。この新しいタイプの権力は、社会にとって脅威となる「行為」ではなく、人間の存在そのものを脅威とみなし、管理・規制しはじめる。このタイプの権力を、フーコーは〈生-権力 bio-pouvoir 〉とよんで、次のように要約する。《死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた》(Foucault[1976=1986:175])。

同性愛の病理学化は、〈セクシュアリティの近代〉のひとつのメルクマールといえる。繰り返し注意しておきたいポイントだが、「近代のセクシュアリティ」が問題になっているのではない。「セクシュアリティ」という内面・人格を問う概念そのものが近代の所産だということである。近代の特徴は、〈公〉の領域から分離されたものとしての〈私〉の領域を、公的に作り出したことにある6

このことは、公私の分離によって個人が国家権力から解放されることを意味しない。フーコーの〈統治性(gouvernementalité)〉の研究以降7. 、近代の国家権力は《全体的かつ個別的に》(Foucault[1979=1993])作動するものとして描かれている。人格へと働きかける特殊な権力のあり方の登場が、近代の特徴なのである。

近代性はいかに人格と関わってきたのだろうか。社会学は次のように記述してきた。

アンソニー・ギデンズによれば、近代は《「目の前にいない」他者との、つまり、所与の対面的相互行為の状況から位置的に隔てられた他者との関係の発達を促進することで、空間を無理やり場所から切り離していった》(Giddens[1990=1993:33])。近代におけるこの変化は、[1]抽象的(公的)制度の無関心性、[2]制度の保証する予期への信頼、これらの促進と密接に関わっているといえるだろう。

[1]〈公的なもの〉、この近代的な領域の特徴は、〈反省〉によって、その「純粋さ」が絶えず確認される点である。たとえば芸術の領域においては、美的判断以外の判断が作動しない。趣味判断=美的判断は、対象を概念ではなく、快・不快感情に直接結びつける。そのとき、美的な判断以外の判断が、括弧に入れられる。芸術作品は、そこに「何が」描かれているか(内容)に関わりなく、美醜の判断がなされる(美の無関心性=形式主義)。逆にいえば、あらゆるものを美的な対象として見ることも可能なのだ。たとえば数学の証明も殺人事件も、その〈真/偽〉〈善/悪〉の判断を保留したままで、〈美/醜〉の判断に結び付けられうる。また、経済システム(市場)において商品は交換価値としてしか現れない。貨幣は、商品がなんであるかを問うことがないのだ。制度の作動は無関心性によって保証される。それぞれの領域はそのことによって自律することができ、それぞれに固有の論理にそって発展することになる。

[2]近代の性質が前代未聞の拡がりを見せたのは、抽象的・公的な制度への信頼がもたらす予期の安定性によってであると、社会学的には記述できる。これは、上述の制度の無関心性を前提としている。近代の制度は主体に役割を付与し、主体を役割の担い手として取り扱うことで、相互行為の自由度、処理しなければならない情報の複雑さを縮減している。その個人が「誰」であるのか、制度は無関心であるために問うことがない。制度は個人を役割としてしか取り扱わない。このことは、制度が予期の安定性を保証していることを意味している。しかしこの近代的制度の性質は、その無関心=無差異(indifference)の性質によって、個人の人格を問わなくなったのではない。逆である。どういうことか?

近代的制度の中で個人は役割の束として取り扱われる。近代社会に生活する人間は、多くの下位システムに参加しなければならない。役割の束をたばねること、すなわち役割管理は困難になる。この複数のシステム間の横断を、彼/彼女は自己自身を一個同一のものとして表出して行わなければならない。ここで要請される役割コンビネーションを〈人格〉という。逆にいえば、分化した社会秩序は様々な人格性を必要としている。似たような人格を前提としては、複雑な機能分化は期待できないだろう(Luhmann[1965=1989:73])。

近代社会は秩序の安定のために人間を人格として扱う。これは個人の側からすれば、自己を、様々な役割を衝突することなく連関させていく選択の主体とすることを意味している。《今や社会秩序の地平において拡散しつつある行態予期は統一的な構造の中では調整されえなくなっているので、もはや異論の余地ない制度的な行態範型に訴えることができなくなっている問題に対して、ますます個人的、人格的な問題解決が発見されねばならなくなった》[ibid.:73-4]8 。 人格を目標とする近代の権力は、社会学テクノロジーと密接な関係を持っている。酒井隆史[1998]は、なぜ19世紀に社会学が可能となったかを次のように論じている。19世紀ロマン主義の特徴は、〈社会〉というひとつの実体が誕生したことであるとされる。巨大な有機体としての社会=身体(corps)は、個としての人間を組み込み、「このわたしのかけがえのなさ」は、分業システムの中の一つの位置を確保することで実感されることとなる。つまり、同質的・均質的なものとしてではなく他人とは違う「このわたし」9 。19世紀の人間像は、決定的に社会・歴史に内属している。

ここにおいて、人口-統計学と確率論とが結びつくことで、統計学的因果性が社会学と国家権力に導入されることになった10 。人口-統計学と確率論は、18世紀以来の

人口に照準を合わせた権力の台頭と共に浮上していた〈社会〉、すなわち固有の規則性・リズムを備えた集合的身体(社会体)を完全に表現するテクノロジーを与えた。(…)逸脱、異常が危険なものとなるのは、社会にとってである。だがここでいわれる〈社会〉とは19世紀になってやっと浮上してきた日付をもった対象であり、この〈社会〉の成立の可能性がなければ、危険性もありえない。[ibid.:111]11

かくして、危険な個人は社会にとっての危険となったのである。

1-1-2. 資本制と社会的領域

どのような欲望を所有しているのかが個人に対して問われ、セクシュアリティというコードで人格に帰属される時、セクシュアル・アイデンティティも誕生する。ホモセクシュアルが同性愛の病理学化によって発明されたものだとすれば、同時にまた自己を同性愛者としてアイデンティファイすることも近代固有の現象であるといえる。D'Emilio[1980=1997]は、資本主義の発達に〈ゲイ・アイデンティティ〉の成立を関連づけている。

17世紀のニューイングランドへの白人入植者たちは、家族経済を中心とした自給自足的な村を設立した。この村は家父長制的なものである家族を基本単位としてつくられていた。しかし19世紀までに世帯内生産のこのシステムは衰えはじめる。北東部においては賃労働が普及し、彼/彼女らは世帯経済から自由労働システムへと転落した。資本主義のもたらした変化によって、家族は落合恵美子[1989]が指摘したような「近代家族」へと相貌を変える。それは《情動と感情と愛情の唯一の可能な場》(Foucault[1976=19 86:139])となったのであり、《労働と生産を中心とする公共的世界からはっきりと区別され分離された個人生活の場となったのだ》(D'Emilio[1980=1997:149])。

デミリオによれば、入植時代のニューイングランドにおいて、出生率は7人以上であった。彼らは子供の労働を必要としていたのであり、《性は生殖のみに奉仕させられた》。キリスト教的伝統社会における行為の規制コードに関してすでにみたように、清教徒は結婚の外での性の表現をすべて非難していたのであって、ソドミーと異性間の姦淫とを明確に区別してはいなかったのである。しかし1970年までに出生率は2人にまで低下した。賃労働システム下において生産が社会化され、《性が生殖への「義務」から自由になることが可能になった》。[ibid.]

家族という異性愛のシステムから、都市の自由労働システムへと人口が移動することで、「愛」をめぐっての自律した関係、愛の領域が追求される条件が整った。しかし彼/彼女らは自分一人でその内なる欲望に気付き、アイデンティティとしてとらえたわけではない。デミリオは、アイデンティティと社会的条件との関係を、「社会的空間」という社会学的概念で説明している。17世紀においても、同性間の性的行為が存在していたことが記録されている。しかし、《同性間での性行動は、同性愛者のアイデンティティとは異なる。きわめて単純にいって、17世紀の入植者たちの生産システムには、ゲイ/レズビアンの存在を許容する「社会的空間」がなかったのである》[ibid.]。

自由労働システムとそれに伴う都市の誕生は、「社会的空間」を発達させる。20世紀の初頭には、ゲイ/レズビアンのためのバー、社交場があった。人々は、都市の中に大きく確立された社会的空間において、サブカルチャーの中で自己をアイデンティフィケーションするようになる。有名なキンゼイ・レポートによると、この社会的空間が発達していなかった1940年代のアメリカ西部では、同性との性交渉は観察されるもののゲイ・アイデンティティをもっているものはほとんどいなかったのである。

また、ゲイコミュニティの発達にとって、第二次世界大戦の動員体制は重要な役割を果たした。《数百万の若い男女を異性愛的な環境である家庭から引き出し、両性が分離された状況(軍隊)へと投げ入れた。すでにレズビアン/ゲイであったものにとっては仲間と出会うための機会でもあった。他の者たちは、戦争が供給した一時的な自由を、性の可能性を模索することに用いることによって、レズビアン/ゲイになることができた》[ibid.:152]。

だが、竹村和子[1997]はレズビアンの歴史を資本主義の発達の中に跡付けながら、デミリオの、自由労働システムによる家父長制的家産性システムからの解放、という図式を批判し、むしろ批判されるべきなのは(資本主義以前的な家父長家族ではなく)《とくに女の同性愛の場合は(…)資本主義体制下の中産市民階級の核家族》[ibid.:83]であるとしている。デミリオは《おもにゲイ男性に焦点を当てて分析しているために、資本主義社会における中産市民階級の性倫理と、それに組み込まれている女性蔑視を無視して論述することになった》[ibid.]として批判される。どういうことか?

竹村の秀抜な分析によれば、近代市民社会の〈規範/逸脱〉のセクシュアリティ・コードは、必ずしも〈「正しい」異性愛/「まちがった」同性愛〉というコードには重ならない。規範として近代社会が擁護するのは、《ただひとつの「正しいセクシュアリティ」》[ibid.:72]ではないか。《「正しいセクシュアリティ」とは、終身的な単婚を前提として、社会でヘゲモニーを得ている階級を再生産する家庭内のセクシュアリティである》[ibid.]。これは、(1)「次代再生産」を目標とする「性器中心の生殖セクシュアリティ」のみを特権化するという〈異性愛主義〉と、(2)家庭内のセクシュアリティ(妻)と家庭外のセクシユアリティ(娼婦)というダブルスタンダードを持つ男に対して、女はひとつの基準しか持たず、しかもその性欲望そのものすらが否定されるという〈女性蔑視〉(性差別)、という両輪を持ったものだ12 。「性が生殖への義務から自由になることが可能になった」と断言するには、むしろポストモダンや後期近代というタームで表現される時代を待たなければならないだろう。フェミニズムが主張するように、家父長制とは、前近代的なものではなく、近代社会の規範、あるいは物質的基盤を持つものなのだ。

竹村は、デミリオがゲイ・コミュニティの誕生をみた19世紀末から20世紀初頭よりも、19世紀中葉において女同士の愛が微妙な位置におかれていたことに注目する。産業資本主義の勃興によって公的な職場と私的な家庭へと、男女の性別役割分業化が進むと、姉妹や親戚、友人などによる女のコミュニティが作られた。それはジェンダー化された仕事(刺繍や編み物)や礼儀作法を伝授するという、《女の規範を再生産する装置として認知されていたために、当時の性倫理に抵触することはなかった》[ibid.:77]。たとえ女同士がどんなに熱烈にその絆を深めていても(手紙の記録などが残っている)、「正しいセクシュアリティ」の言説によれば《女の「性欲は希薄」》であるので、彼女らの愛は脱性化(脱エロス化)され、《「ロマンティックな友情」や「姉妹の絆」》と呼びかえられた[ibid.:76-7]。

ゲイ男性にくらべてレズビアン達は不可視の存在だった。女達の愛の不可視性は、異性愛主義だけでなく、女性蔑視によって脱性化されていることから帰結しているのだ。ナチズムの同性愛排斥は有名であるが13 、レズビアンへの迫害の規模は、ゲイに対するものほど規模は大きくなかったとされている。だがそのことはレズビアン差別の別の側面を照射する。《ナチズムにとって女性同性愛者は存在しなかった。それはせいぜい「疑似同性愛」でしかないとされた。というのも女性は、たとえレズビアンであっても、人口政策上「使用可能」(!)だったからだ。実際「矯正」と称して、収容所で(男性相手の)売春を強要されたレズビアンについての証言が残されている》(足立典子[1996:173])。

大衆消費社会の20世紀中葉になると、労働市場に参入する労働者階級のレズビアン達の間で、ズボン、断髪の男役の役割演技が流行する。公的な場へ男として出ていくことが、中産階級の核家族神話による不可視性への抵抗だったのだ。のちにフェミニズムによって「男への同一化」として批判され、クィア理論によって逆に「性役割のパロディ化」として再評価されることになる役割演技は、このように歴史的産物としてみることができる。

ゲイ・アイデンティティの変遷は、当然ながらゲイ解放運動と切り離すことはできない。解放運動の局面を大きく三つのフェイズに整理してみよう(酒井[1996])。

'51年には、ロスでアメリカ初のゲイの団体が創設されている。50年代中葉には、マッカーシズムを背景に、「同化主義」的傾向を持った「ホモファイル(homophile)運動」を展開している。彼らは、同性愛への偏見をなくすため、教育の場を運動の焦点とした。

しかし'69年のストーンウォール暴動は運動の性質を転回させてしまう。1969年6月27日金曜日、ニューヨーク市警察第一分署の警官8名が、グリニッジ・ヴィレッジのクリストファー通りと七番街の角にあった「ストーン・ウォール・イン」というゲイ・バーを強襲した。このような警察による嫌がらせは何度かあったが、この日に限って普段はおとなしいゲイ達は激しく抵抗し、暴動が起こった。

この晩から数日間は、クリストファー通りでは夜ごと混乱が続いた。金曜の夜の暴動以来、ここを一種の解放区と感じたゲイやヒッピー、それに彼等を自分たちの運動に合流させようという新左翼系の若者たちがどこからともなく集まってきたのである。60年代初期から活動していた新左翼の活動家のなかには同性愛者もいて、彼等はストーンウォール暴動を同性愛者が連帯して社会的に発言し行動を開始できるいいチャンスとして、この後何回か集会を組織した。(石井[1991:122])

暴動後、数日の内に「ゲイ解放戦線(Gay Liberation Front)」が結成される。この組織は、ホモファイル運動の同化主義とは異なり、「文化的マイノリティ」としての自分達の解放がアメリカ合衆国総体の解放に結びつくというヴィジョンを打ち出した。「ラディカル・ゲイ・リベレーション」とよばれるこの運動の傾向は、60年代のラディカリズムの高揚を背景にしていた。

ところが、《70年代に入りラディカリズムの諸潮流あるいは雰囲気総体が後景化するなかで急速に衰退していった》(酒井[1996:109])。1970年には「ゲイ活動家同盟(Gay Activists Alliance)」が結成されるが、以後、ゲイリベレーションとは区別される、「同化主義」に近い政策の「ゲイ・ライツ」運動が形成される。

この三つのフェイズ、(1)ホモファイル運動、(2)ラディカル・ゲイ・リベレーション、(3)ゲイ・ライツ運動の局面には、69年のストーンウォール暴動をはさんで、決定的な差異がある。「ストーンウォール以降」のゲイ達の方針は、「アイデンティティ・ポリティクス」の形態をとる。すなわち、たんなる仲間内での性的指向の表明に終わるのではなく、公的領域へと向けて、自らの存在を肯定的なものとしてカム・アウトし、そのことによってアイデンティティを《形成、再編成、変容》するのである。《カミング・アウトは、いわば主体性とその形成の場所=コミュニティの接点にある行為であるといえる。彼らはカミングアウトによって、主体性とその形成の場所を同時に構成するのである》。[ibid.:111]

ケン・プラマーは、このような、コミュニティ(社会的空間)とアイデンティティを同時に構成するような後期近代に特有の状況を「セクシュアル・ストーリー・テリング」というキーワードでとらえている。メディアの生む共同体、社会的世界によってセクシュアル・ストーリーは公共的世界へと流れ、共有される。《ここに地縁や直接的で対面的な接触を基礎にしない、メディアを基礎にした新たなサポート・コミュニティができあがりつつある》(Plummer[1995=1998:94])。

まとめよう。近代における資本主義の発達は、同性愛者達の存在する空間を発達させ、ゲイ達は自分達のアイデンティティを確立する契機を得た。しかし同時に、同性愛の存在は近代資本制が前提とする異性愛核家族を頂点とする性倫理からの逸脱とみなされ、同性愛者をそうでないものと区別するセクシュアリティ・コードを準拠枠とした権力が作動することになった。それでは、近代の資本主義の発展が可能にした同性愛者達の存在と、当の近代社会が擁護する性倫理が衝突するように見えるのはなぜだろうか。次にこのことが分析されなければならない。


1 アドリエンヌ・リッチのいう「強制的異性愛」(compulsory heterosexuality)(Rich[1986=1989])、および竹村和子のいう「〔へテロ〕セクシズム」(竹村[1997])などの概念にみられる。

2 本節では、このテーゼについてよく引用されるFoucault[1976=1986]、Weeks[1986=1996]、Halperin[1990=1995]および非常に簡潔に整理されている酒井隆史[1995]を参照した。

3 イヴ・K・セジウィックはこのような理論モデルを危険であるとみなしている。もしこの〈内面〉モデルが不変だとしたら、いかなる行為をしようとも同性愛者と異性愛者との区別は確固たるものとみなされ、「同性愛者というひとつの種族」はマジョリティと区別されたマイノリティとしてその地位が固定されてしまう。《「ソドミー」と呼ばれるような行為が、それを行う人間のジェンダーに関わらず(ホモ/へテロセクシュアルの「アイデンティティ」までは考えないとして)、犯罪だとされている州に住む私のような人間にとっては、行為に対するこのような禁止につけ加えて、さらにアイデンティティに結びついた合理化されない一連の制裁が並置されるという脅威は深刻である》(Sedgwick[1990=1999:64])。そこで彼女は、ホモ/へテロをひとつではなく複数のモデルが共存することによって定義することを望む。セジウィックの著作から本稿は大きな影響を受けているが、この点に関しては、いかなる理論モデルであれそうであるように、規範的な対象の扱い方を批判的にとらえかえすための理論として、フーコーらの考えを取り上げたい。本稿全体では、この「ひとつの」モデルに固執せず、セジウィックが主張するように、「複数のモデルが共存」しつつ組織化していくような観点を採用している。本稿が根本的に批判しているのは、定義することで支配・統制するような態度である。

4 sexuality とは《「無定義概念」である。そして、セクシュアリティ研究とは、人々が「セクシュアリティ」と呼び、表象するもの、そしてその名のもとで行為するしかたについて研究する領域である》(上野[1996:6]といわれるように、〈セクシュアリティ〉を定義することも、日本語に翻訳することも難しい。フーコーの Histoire de la sexualité (セクシュアリティの歴史)を訳者の渡辺守章氏は『性の歴史』と訳し、本文ではsexualitéを「性的欲望」「性現象」「性行動」と文脈によって訳しわけている。

5 《少年愛の関係にある年輩の男性と若い少年の両者をともに、たとえば〈同性愛〉として同質化するようなことは、古代アテネ人にしてみれば、それこそ、泥棒を「能動的な犯罪人」とし、被害者を「受動的犯罪人」として、両者をともに犯罪の共犯者として分類するのと同じように、奇怪なことだった》(Halperin[1990=1995:55])。ここでの〈能動/受動〉の役割は、産業資本主義社会での〈男性/女性〉の役割に重ね合わせられることになる。「受動性」への嫌悪について、第2節で論じる。

6 上野千鶴子[1996:11]は次のように述べている。《近代以前には性について語ることが「内面」や「人格」に結びつけられて考えられることはなかった。(…)「われわれ」から「わたくし」というものが分離し、「われわれ」に還元しがたいものだけを、人々は「個性」や「人格」とみなすようになる》。上野はつづけてアイデンティティ研究から次の箇所を引用する。《どうやらわれわれには、隠したものを自分の本質と信じる傾向があるらしい。本質を隠す傾向ではない。隠したものを本質と信じる傾向だ》(石川准[1992:24-5])。

7 フーコーは不可視のミクロな権力を対象化した点で評価されてきたが、国家や経済システムの様なマクロな視点を欠いているとして批判されてもきた。しかし、フーコーは晩年の統治性研究において、まさしく国家の問題に関心をシフトさせていたことが明らかとなっている。筆者は、'78年と'79年のコレージュ・ド・フランスでの講義テープを中心に論じた米谷園江[1996]と、人口を対象にした権力を論じている酒井隆史[1998][1999]を主に参照した。gouvernementalité (統治性)はフーコーによる造語である。

8 《18、9世紀という過渡期においては友情というものが強調され(…)このような発展の終末である19世紀には、社会学と「ダンディ」なる人間類型とが現れた。人格性は今や個人として(…)理想化された》(Luhmann[1965=1989:74])。

9 Simmel[1908=1994:10章]を参照。

10 Ewald[1986]は、事故を個人の過失ではなく社会全体のリスクとしてみなして全体的なものと個別的なものを結び付ける「労災」の誕生を19世紀に発見している。Anderson[1991=1997:10章]も参照。

11 あるいはまた、牟田和恵・槇芝苑[1998]が論じたように、マス・メディアの発達が規範の強制力を増大させるのに加担した。たとえば伊藤野枝・平塚らいてう・与謝野晶子らの「新しい女」たちの行動は、現代の基準からみても大胆に見える。だが、時代をさらにさかのぼってみれば、彼女らはさほど特別ではない。明治期の福田英子・清水紫禁などの行動は、近代のセクシュアリティの規範的な観点から見ればさらに驚くべき行動をしている。つまり、この時代から比べて、ジャーナリズムで活躍した大正時代後の「ラディカルな」女たちは、むしろ穏健化していたのである。その理由としては、ジャーナリズムの成長が、《女性が、しかもそのセクシュアリティに関わる領域が監視され、タテマエの規範から逸脱するものにはパブリックにサンクションが加えられる時代を産み出した》[ibid.:103]からである。規範が厳格であるからといって、その強制力が強いとはかぎらない。近代は、規律の強制力の増大していった時代なのである。牟田和恵[1996:第5章]も参照。

12 竹村は、したがってただの「ヘテロセクシズム」(異性愛主義=同性愛嫌悪)でも「セクシズム」(性差別=女性蔑視)でもなく「〔ヘテロ〕セクシズム」と記述している。

13 映画化もされた戯曲『ベント』参照。