第2節 ホモフォビアの構造

1-2-1.家父長制と生殖イデオロギー

近代性についての議論から、個人を人格──ここではアイデンティティといってしまってもいいだろう──として扱うことが、(人口統計学と結びついた)規範から帰結されたという近代の特質が明らかとなった。また、自由労働システムについての議論によって、この近代の権力が標的とするセクシュアリティ=アイデンティティが、生まれ育った私的な家族の外部にある社会的空間において定義され、さらに公的なものにとって不可欠な私的領域=生殖する家族にとって逸脱であるようなセクシュアリティが危険なものとされていくことが明らかになった。ここでは、セクシュアリティが問題とされること──すなわち「正しい」セクシュアリティが擁護されること──が、近代社会の物質的な条件によっていかに規定されているかをみたい。

近代家族の議論に焦点を戻そう。近代家族は、竹村和子の議論にもあるように、異性愛主義と性差別を両輪とした核家族神話を再生産している。「同性愛は子供を作れないから自然に反している」といったたぐいのホモフォビックな言説は、この「神話」から容易に導くことができる。ここで前提となっている、「子供を作る」こと=生殖=再生産が至上の目的となって同性愛差別を正当化する認識の枠組みを、「生殖イデオロギー」とよんで、ここでの分析の対象としよう。

加藤秀一が述べているように、《生殖が、性欲の本来の目的》であるという考え方は、《目的論的世界観》を背後に隠し持っている(加藤[1998:36-39])。たしかに、人類の歴史においては、性欲があって、男女間の性交があり、結果として生殖がおこってきた。しかしこの〈原因─結果〉を〈手段─目的〉と取り違えてしまうと、順序がまったく逆さまになってしまう。時系列に反し、〈目的〉はつねに〈手段〉に先行していなければならないものだ。子供を作るためにセックスにはげむカップルがいるのは事実だが、しかしそれでも、〈原因─結果〉といういわば機械的な科学的因果性を前提としない限り、その行為(セックス)が結果的に生殖に結びつくという予期そのものがありえないことはいうまでもない。〈原因─結果〉を〈手段─目的〉と取り違えることは、事後的にその順序をひっくりかえしてしまういわば「遠近法的な錯角」なのだ。遠近法の消尽点に、いわば〈目的〉系列の最終審級がでっちあげられる。誰の目的なのか? かつては「神」であり、いまではそれは「自然」である。「自然」こそが、近代の最大の人工物なのだ。

合目的的なもの(目的にかなっているもの)を、目的論的に錯覚するこのメカニズム1 は、そこで召還される最終審級の性質をみることで、その作動条件がわかる。生殖イデオロギーの場合、生殖=自然という審級が絶対化されている。これほどまでに生殖=再生産を祭り上げる(神秘化する)近代家族は、生殖イデオロギーをいかに条件づけているのだろうか。

近代家族は、自由労働システムの外部に位置づけられ、性は家産制システムにとっての生産力に奉仕するものから、「愛」をめぐっての自律的な関係性へと変貌した(ロマンチック・ラヴ・イデオロギーの成立)。上野千鶴子によるマルクス主義フェミニズムの図式に示されるように、市場はその外部環境に「自然」と「家族」を配置している。市場は労働力という資源を家族からインプットし、労働力資源とみなされない《老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする》(上野[1990:9])。労働力資源とみなされるのは「昼間」の「健康」な「成人男子」であって、疲労した「夜間」の労働者達は次の日の労働力となるために家族へと帰っていく。市場での生産労働に対して、家族の領域で行われるのが、再生産労働である。家族は、市場システムから排除されながらも、「生産と再生産」「資本制と家父長制」2 というカップリングによって、不可欠のものとして近代社会にガッチリと組み込まれているのである。

精神分析学においても、イデオロギーを再生産する装置として、公的な領域と私的な領域の相互依存関係がとらえられている。ラカンの有名な〈象徴界〉と〈想像界〉の分割は、公的領域(たとえば職場)と私的領域(たとえば家庭-妻)に対応するだろう。ラカンの精神分析では、人は、自己に対称的にあらわれるイメージ(たとえば母親や、動物にとっては獲物や敵)として物事があらわれる世界(想像界)から、言葉・約束事からなるシンボルの世界(象徴界)へと参入していくことで大人になるとされている。シンボルの世界である公的領域で男は、価値・理想=幻想を追い求め、欲望を追求する。だが幻想は幻想であるため、去勢が起こる。困難に陥った男性は、イメージの世界である私的領域で、退行的な慰安・快楽によって癒される。《彼にとって妻-家庭は、人生の価値や目的そのものではないものの、それを「裏側から支えて」くれる、あくまで補助的な退行的-原初的領域である》(樫村愛子[1998:57])。

だがなぜこのふたつの領域が、性別によって分担されることになったのだろう?3  気をつけなければならないのは、いわゆる「性差」と「性役割」との結びつきに存在するある種のトリックである。仮に女と男では身体能力が違っていたとしよう。しかしそのことが担うべき役割の違いを必然的に導くことにはならない。加藤秀一のあげている例では、女子学生が企業面接で「女性は体力がないから無理だ」といわれる。だが、この企業が体力のある労働力を必要としているのなら、体力測定を行えばいいのである。性差はここで、明らかに規範として働いている。性差とは、任意の男性と任意の女性の間の差異ではなく、《あくまで集団に関わる統計的な概念》(加藤[1998:32])だということだ(統計的概念が規範(norm)として働くことは前節ですでにみた)。

社会学的にもう少し突っ込んだ議論をするなら、この企業はおそらく「体力のある労働者」を採用したいのではなく、予期の安定性が欲しいのだ。もし体力のある女子が採用されたとしても、彼女は「女なのに体力のある奴」とみなされ、「女は体力において劣っている」という予期は覆されない。逆に体力のない男子が採用された場合、「男なのにひ弱な奴」とみなされ、「男なのだから体を鍛えろ」とか、あるいは「面倒見の良い」上司に「俺が鍛え上げてやる」などと、規範を押し付けられることはありそうなことだ。この場面が隠喩的に示しているのは、この「面倒見の良い」上司がホモセクシュアルであるということではない。問題は、この安定的予期4 が、ホモソーシャルな集団5 によって維持されている点にあるだろう。

しかしここでもっとも重要な事例となるのは、体力のない女子が採用された場合だ。彼女は、「やはり女だから」とみなされ、予期を覆すこともなければ、むしろ安定化のフィードバックを促す。「女性差別は女性ががんばることで(鍛えることで?)覆すべき」といった言明は、このフィードバック・ループに組み込まれている点で、間違っている。

フェミニズムは、性と世代を変数として役割を配分する規範を、あの有名な〈家父長制(patriarchy)〉という概念で表現した。しかし、酒井隆史の指摘するように、家父長制はセクシズムは導くが、ヘテロセクシズムを導くとは必ずしもいえない。《家父長制と、ヘテロセクシズムの不在の両立する文化は、古代ギリシャをはじめとして多く存在する》(酒井[1996:115])からだ。近代家族が異性愛主義の領域であるのは、近代家族が「婚姻の装置」と「セクシュアリティの装置」という異質な装置の接合によって特徴づけられるからである。

婚姻の装置と同様、セクシュアリティの装置は性的に結ばれた相手という関係に接合される。しかしそのありようはまったく異なるのだ。(…)婚姻の装置は、社会体のホメオスタシスを維持する役割を担っている。そこから法に対して特権的な絆を持っている。そこからまた、重要な段階は「生殖=再生産」だということになる。セクシュアリティの装置の存在理由は、生殖=再生産することではなく、増殖すること、いよいよ精密なやり方で、身体を(…)発明し、貫き、そして、住民をますます統括的な形で管理していくことにある。(Foucault[1976=1986:139-142])

婚姻というジェンダーのレベルと、身体の内部(内面)に権力の標的として発見されたセクシュアリティのレベルが無反省に結び付けられること、セクシュアリティが「ジェンダー化」されていることが自明なこととして反省されないことを、近代家族は帰結するのである。

ここで問題視しなければならないのは、セクシュアリティがジェンダー化されているということ、すなわち、あるセックス(性別)を持つものは必ずそれに対応するジェンダーを持ち、必ずその正反対のセックス-ジェンダーを持つものを欲望する、という、セックス-ジェンダー-セクシュアリティの「一貫性の原則」が、逸脱のスティグマを生産する力の正体だということだ。セクシュアリティに対して、エロスという概念をたててみればわかりやすいだろう。エロスの悦びは、その対象が「性」に向けられていることから得られるとは限らない。むしろ、エロスは無限定で定義不可能な広がりを持つものだともいえる。その広がっていくエネルギーを、性器的/生殖的なものに矮小化した時はじめて、セクシュアリティという概念は成立しているのである6

「正しい」セクシュアリティを祭り上げる生殖イデオロギーは、この「一貫性の原則」を目的論的に説明する時に召還される、遠近法的な消尽点、フィクションである。統計学的な規範にすぎない性差の概念7 と性役割との恣意的な結びつき(ひっくるめてジェンダー・ファンタジーとよぼう)が正当化される時、セックスという「本源的なもの」「自然なもの」「生物学的なもの」が捏造される。「性別があるから、性差がある。性差があるから、性役割がある」──この説明は、実は逆さまに語られているのだ。近代の性別役割分業における性役割を正当化するのに、その前提となる根拠が、次々と捏造されていく。このとき、「一貫性の原則」がエロスを矮小化して、セクシュアリティというフィクションが語られることになる。

1-2-2.ホモフォビアと無知の効果

ここまでの議論では、ホモフォビアを正当化する言説の脱構築には成功しているが、ホモフォビアそれ自体の内部には潜入できていなかったかもしれない。ホモフォビアというものの性質に、より焦点を絞って分析する必要があるだろう。

社会学の修士論文として、この論文が科学的な考察を記述したものだということを示すためには、これがなにかのためになされた考察であることを避けているということを示さなければならないだろう。じっさい、社会学の論文が政策的な提言であったり、政治的な立場を持っていたりする必要はないし、そうするべきではない。しかし本稿が言及している論文の多くが、性的少数者の立場から書かれたものであったり、ホモフォビアに対して批判的なものであることは明らかである。だがおそらく、そのこと自体は論文としての科学性を損なう直接の原因になるとは断言できないはずだ。ある事象を観察し、別の事象との共変関係を分析するとしたら、それらの事象と、それではないものとの間に区別を設け、観たい事象でないものを相対的な不変性を持った「背景」として視野から追い出すことが科学の前提であると思われる。本稿も、ホモフォビアという社会的事象を当たり前の自然な背景とするのではなく、ひとつの「謎」として対象化する観点を持っている。それでは、ホモフォビアが謎ではなく自明の前提となるとき、そこにはどのようなことが起きているのだろう(まさにそこで起こることこそが、われわれが謎としたいことなのだ)。

ホモフォビアとは、文字どおり同性愛に対する嫌悪なのだから、ホモフォビックな観点は、同性愛とそうでないものとを区別していなくてはならない。すなわち、異性愛者と同性愛者とにすべての存在者を分割する、近代のセクシュアリティ・コードを前提としていなくてはならない。ホモフォビックな観点は、だから、存在者Sを、「Sは異性愛者/同性愛者である」と把握するものであるといえる。もちろんあらゆる観点が、「Sはpである」という把握をする(pには、ジェンダー、人種、階級、国籍など、存在者についての考えうる属性を代入できる)。このことは第2章第2節でふたたび詳しく論じることになるが、このような把握の仕方は、《人々は互いに異なっている》という《自明の事実》(Sedgwick[1990=1999:35])と真っ向から対立するものだ。たとえばセジウィックのあげる「個人の差異のリスト」のひとつめの項目は、《同一の性器的行為でさえも、人によって異なる意味を持つ》[ibid.:38]というものだ。このような自明な事実が、「Sは異性愛者/同性愛者である」という把握をした瞬間に隠蔽されてしまう。ここでSにはどんな固有名を代入することも可能であり、ということは、あらゆる固有名は等値可能なもの、取り替えのきくものになる。つまり、ここで起こっているのは、互いに異なっているはずの個々の人々の差異を知ることなく、人々を「知る」ことができるということだ。つまり、「(非)pである」という同一性についての知識をもってさえいれば、差異については無知のままでいることが可能なのだ。

無知は、いまだ明かりの灯されていない不透明な暗闇なのではなく、知識によって生産されたものである。このことを逆転させていえば、知識は無知によって構築されているということもできる。知識と無知は、相互に関連して支えあっている。このような「無知」のとらえ方はいわゆる啓蒙主義の仮定に対立するものであろうが、無知が知識を構築するのだとしたら、教育とは、知識ではなく無知を内面化させることであると定義できるかもしれない。

そのような無知の効果は、《権力の磁場》となるものだ。《解釈の慣例に対して知識の幅のより狭い、あるいは狭いふりをする対話者の方が、やりとりの条件を画定するのである》[ibid.:13]とセジウィックは述べる。たとえば、ミッテランが英語を知っておりレーガンがフランス語を知らないとすれば、ミッテラン氏は英語で話さなければならず、レーガン氏は自分の母語で話しても良いことになる。この権力の磁場圏内においては、「知っている」者よりも「知らない」者の方がより優位な立場に立てるのだ。(差異について)無知な者が、(差異について)知っている者から「知る」権利を奪うのだといってもいいだろう。

特定の知識が特定の無知を生産することの効果が、ホモフォビアという場においてあらわれるとき、その効果は独特のものである。たとえば、カミングアウトの場面において、自分の人種という「曖昧さ」のないことについてカム・アウトするときと、ゲイの場合とでは「知る」権利の配分のバランスが異なる。セジウィックのあげているのは、ラシーヌの『エステル』において、エステルが王に自分がユダヤ人であることを告白する場面であるが、王はこの告白に衝撃を受けるものの、《エステルが一時的にそういう段階を通っているのだとか、ユダヤ人でない人間に対して怒っているだけだとか、彼女が彼への愛のためにカウンセリングを受けてさえくれれば変わるかもしれない》[ibid.:112]などとは思わない。これとは対照的な、ゲイのカミングアウトの場面に伴う独特の不安定さが、少し長くなるが次の引用に示されている。

20世紀の文脈でゲイが秘密を明かすというプロセスには、権威と証拠の問題がまっさきに持ち上がり得る。「どうして君が本当にゲイだってわかるんだ? なぜそんなに急いで結論に飛びつくんだい? 結局のところ、君が言っていることは、単に少しばかりの気持ちに基づいているのであって、実際の行為に基づいているのではない[あるいは代わりに──数回の行為に基づいているのであって、必ずしも君の本当の気持ちに基づいているわけではない]。セラピストと話して確かめてみた方が良くはないかい?」このような応答は(カム・アウトされた人々に起こるこのような反応は、カム・アウトしようとしている人々の心のうちで既に起こった反応の、遅れたこだまのようにも見える)、現在のところゲイ・アイデンティティの概念そのものがいかに問題ある概念か、と同時に、それがいかに激しく抵抗されるか、そしてその定義をなし得る権威がいかにゲイの主体(彼女/彼)自身から隔てられているか、を暴き出している。[ibid.:112]
このようなことが、実際に起きていることなのだ。ここでは、自分を名付ける権利、自分の欲望を表明する権利すらが、当事者本人から奪われている。名付け、把握するという権力は、決定的に「無知な」ものの側にある。それは、「権威と証拠」をそなえた、つまり「知識」を持つものによって奪われているのだ。セクシュアリティと名付けの関係のこの不安定さはどこからくるのだろう?

人種や国籍などについては、自分でそれを選んだわけではないのと同時に、「曖昧さ」がない。身体障害についてはどうか。それも要介護者認定のためにはいまや統計パッケージによる判断が必要であり、名付けの権利は奪われているが、外見による判断には「曖昧さ」がない。よりセクシュアリティに似た不安定さを持っているのは、病気、なかでも心的な病気ではないか。病気を認定する権利は、医学という権威が全面的に奪っており、やはり選べないと同時に「曖昧さ」が無いようにみえる。たとえば「ウィルスのせいで熱が出た」といえば学校・会社を休む正当な理由となり、治してから出勤するように促される。それは「治る」もので、「治すべき」ものなのだ。だが、鬱病、神経症、精神病などの場合はどうか。これらも確かに病気として認定され、「治してから」出勤するように促される。しかし心的な病気に付与される独特のスティグマは、同性愛に対して付与されるスティグマと似てはいないだろうか。「アフリカン・アメリカンである」「視力が無い」「熱がある」などの訴えは、本人の宣言と権威による名付けがほぼ等閑視される。だが、「ゲイである」「対人恐怖症である」「引きこもりである」などの本人の訴えは、複雑な認定基準を持った医師の権威に対抗する力を微量しか持たない。また、「あいつはホモっぽい」とか「ああいう性格に問題がある奴はきっとアダルト・チルドレンなんだろう」とかの「陰口」の類いは、それが人を貶めるスティグマとして作用する点で似ている(同性愛と精神病が似ているのではなく、それぞれのスティグマの性質が似ている)。同性愛も、精神・性格の「問題」も、それ自体ではだれに迷惑がかかるわけでもなく、むしろ本人にとってのハンディ・キャップである(そしてその生き難さは長い時間をかけた自己受容によって克服していかなければならず、カム・アウトの相手は慎重に選ばなければならない)にもかかわらず、あたかもそれは他者に恐怖とパニックを生じさせる伝染病であるかのように扱われ、職場・教室に入れないことの正当な理由とされている点で、身体障害や人種・ジェンダーの属性とは異なっている(正当化の理由が帰属される水準が違う。女であることそのものという性別の水準を差別の正当化に用いることは今では困難なことであり、「女は非力だから」などの性差の水準に正当化の理由が帰属される)。同性愛者であることや気狂いであることは、それ自体が嫌悪されてもかまわないことなのだ8 。そう、それはあたかも伝染病のようにあつかわれる。

ホモフォビアとエイズの表象の結びつきは、ゲイ・スタディーズのひとつの研究領域になっている。80年代にアメリカを襲ったエイズ・パニックは、まずホモフォビアという格好のはけ口を経由して昇華されようとしたことは、周知のことである。エイズに関する表象は、同性愛の表象と同様に不安定なものだ。この不安定さは互いにリンクしあっている。エーデルマンがいうように、「エイズ」とは《一貫した医学的指示物に欠け、その言葉が示そうとする決定上の(諸)状態を探る記号のままであり続けている》(Edelman[1994=1997:257])ものであり、じっさい14ページに及ぶ政府定義にもあてはまらないHIV感染者が、数千人いる。それは定義不可能なものなのだ。この不安定さがホモフォビアと結びついて、不安や恐怖が表明されるとき、さまざまな、冷静に考えればおかしなレトリックが持ち出されてくる。エイズへの不安は、同性愛者への嫌悪を正当化する物語をレトリカルに語る中で、同性愛者を諸悪の根源とする切断操作によって昇華される。それらのレトリックが共通に持つものは、《[HIVという]推定上の原因の医学的指標と、[エイズという]その結果とを修辞学的に同一視する》[ibid.:258]混同である。「エイズ」という定義不可能な、不安定なものをとらえ、把握し、なにかに責任を帰属して納得しようとするとき、同性愛者というとらえどころのない不安定な存在の表象が、ホモフォビックなレトリックの中で凝固するのである9

作家のウィリアム・バロウズは、エイズについてのレトリックの読み方をこう提示する。《「別の世論調査によれば、夥しい数の人々が」と彼は言う、「どちらもウィルスに感染していないとしても、同性愛者がセックスをすればエイズを惹き起こすことがあると信じている! なんたる処女懐胎!」》[ibid.:282からの重引]。このような、一般人が信じている、信じられないようなレトリックは、神話のような性質を持っているのだ。「エイズ」は、同性愛からもたらされたもの、同性愛者が「無垢な被害者」である一般人に脅威を与えようとして(「エイズ」以前から彼らが脅威を与えてきたのと同様に!)製造したものだというのだ。

レオ・ベルサーニは論文の中で、ゲイ男性の罪として「エイズ」という記号の中に読み取られているのは、乱交セックス、それも受動的なアナルセックスであると分析している。《乱交は単に感染のリスクを増大させるだけでなく、感染の記号なのである。(…)このイメージは(…)女性であることの自殺的エクスタシーを拒むことができず同性相手に大股開きした成人男性という、はるかに魅惑的かつ許容し難いイメージ》(Bersani[1988=1996:128-129])である。前節で、古代ギリシアの性コードが〈能動的/受動的〉という区分法であることをみた。責任ある市民である成人男性が、「挿入する」という能動的な役割でないことは、まさに「自殺的」なものであったのだ。《挿入されるということは権力を放棄するということなのだ》[ibid.:129]。

一晩に何人もの相手と数多くのセックスをするゲイ男性の乱交というイメージ、挿入され、(一度の射精で一度きりのクライマックスをむかえる「能動的」男性と違って)何度もエクスタシーに達する肛門という場所から、「エイズ」は出産される。それにはもはやHIVという「原因」すら必要無いのである。アナルセックスが記号としてこれほどに、不安を投影する帰属先になるのはなぜか。ベルサーニによれば、受動性の拒絶を促しているものは、《無力や統御の喪失の魅惑を否認することへの誘惑》であり、《無力の価値というものの否定》[ibid.:134]である。そして無力の価値とは、《自我の解体と貶下》のことである。自我という能動性と、解体された自我という受動性の、この対立は、あの知識と無知の対立、「無知であるがゆえに知ることができる」権力者と「知っているがゆえに知ることを奪われている」者との対立である。もういちどいっておこう。「Sはpである」というポジティヴな述定は、「pか非pか」という区別を行うため、一人ずつ違っているはずの、Sの集団の差異を知ることがない。つまり、差異については無知であることが、「である」という同一性の知識の前提であったのだ。把握し、納得する権威、支配して統制する権力は、差異について無知であることによってその力──能動性──を得ている。差異をはらんだ決定不能なもの、不安定なものは、こうして、能動性それ自体の危険物として処理されてしまうのだ。

ホモフォビアはこうして、異性愛男性が無知の効果を用いて、能動的な自我──世界を名付けの権力をもって把握し、支配する同一的なもの──を確立するにあたって、その「無知」の対立物である差異を喚起するような、不安定で定義・決定不可能なものを排除しようとする作用のことであるということができる。それは、自我が崩壊することや無力になることという、それ自体は魅惑的なことに対する、不安や恐怖のあらわれなのだ。

したがって、ホモフォビックな言説の中に登場するゲイ男性の表象は、ゲイ男性そのものとはなんの関係もない。異性愛男性によるいいがかりともいえるようなホモフォビアの表明を、エーデルマンは、精神分析学の用語を用いて、妄想的な自己投影による棄却とよんでいる。第3章第1節でさらに詳しくこの作用について説明するが、この説明図式は本稿が採用している脱構築の方法を一般化したものでもあるので、ここで簡単に説明しておこう。

ホモフォビックな異性愛男性は、同性愛を差別するとき、同性愛を異性愛と区別し、自己に属さない要素を同性愛に帰属する。このとき、第一項としての異性愛は、第二項としての同性愛に先行する「オリジナル」であり、当たり前の〈無徴〉の存在に見え、同性愛は逸脱した、異常な〈有徴〉的存在に見える。しかし、第一項が無徴として「純粋」に、「やましいところ」なく存在するためには、その「純粋さ」に反するような要素、「やましい」ものを捨て去る必要がある。このときの、捨て去られた要素の帰属先が第二項なのだ。つまりは、内部としての第一項は外部としての第二項に先行しているのではなく、純粋な内部に外部は先行している。外部が内部に対して先にあるのでなかったら、内部はありえない。つまり外部はもともと内部にあったものであり、それが外部として設置されてはじめて、内部が「オリジナル」という見かけをとることができるのだ。

このとき外部として設置された第二項は、内部が自己から棄却したい要素を帰属した宛先であるので、それはもともと内部にあった要素の集合である。つまり、そこに見い出されているものは、内部が投影したものにすぎないのだ。たとえば、わたしが外国を訪れたとき、その国の習慣が邪悪なものに見えたり、高貴なものに見えたりするかもしれない。だが、わたしの見ているその国の習慣それ自体には、邪悪な成分も高貴な成分も含まれていないかもしれない。それは、あくまでもわたしの観点から観察したときに、わたしの普段従っている習慣とは異なるような部分に、自己の内の邪悪さや高貴さを投影しているだけなのである。

さて、次章ではここで一般化した脱構築の方法を使って、ジェンダーやセクシュアリティの二項対立を反本質主義的にとらえていく。そのときに開けていく視野は、無知の効果によって開拓された権力の磁場とは異なるものとなるだろう。繰り返しておくなら、無知とは、差異について知らないことによって、同一性についての「知識」を得ることである。無知は、知識によっては永遠に克服できないものなのだ。この試みが困難なのは、差異について知ろうとする側は、知ってしまうことによって、知らない者たちの権力に対してますます無力になっていくからである。しかしわれわれは、能動的な主体性(ポリティクス!)の方向へ行く(第3章)前に、この無力さを受け入れ、受動的なものの内に留まり、内省的な理論の反省性の中にしばらく引きこもることにしよう。


1 たとえば洗濯機は洗濯を目的にしているようにみえる。しかし洗濯機は単に機械的に作動しているだけであって、なんの目的も持っていない。「洗濯」という、当の機械にとっては外部に存在する観察者にとっての「目的」に対して、合目的的なだけだ。観察者にとっての目的を、機械=主体に帰属する作法が、目的論的世界観に固有の遠近法的錯覚である。

2 もちろん、資本制=市場/家父長制=家族というふうに、その作動領域が分離しているのではない。稲葉振一郎[1993]のいうように、資本制も家父長制も社会の全域で作動している。「資本制と家父長制」というマルクス主義フェミニズムの問題構成は、市場と近代家族の分離という現象を分析の対象(のひとつ)としているのであり、本稿でもその問題意識を受け継いでいる。

3 瀬地山角[1996:35]が正しくシンプルに述べるように、《性に基づく役割の配分は、そこに権力が入り込んでいるから(平等でないから)問題なのではなく、生物学的な性に基づいて役割が配分されてしまうこと自体が、自由でないから問題なのである》。

4 Luhmann[1972=1977]は、認知的予期と規範的予期を区別している。たとえば「秘書はすべて美人である」という予期は美人でない秘書に会うことで変更される。このタイプの予期が認知的予期。しかし「秘書は外国語に長けている」という予期は、そうでない秘書に会った時に変更されず、むしろこの秘書が「秘書として失格/例外」とみなされる。これが規範的予期である。大澤[1988:291]の註6も参照。

5 Sedgwick[1985]は、女性と同性愛への嫌悪によって結ばれた男性中心社会を、ホモソーシャルとよんだ。この分析概念は、ファシズムから日本的企業集団までをも視野に入れられる重要な概念だと思われる。実際、「ひとつになる」ことのエクスタシーは、ヒトラーの演説でもエロティックな比喩で語られている。浅田彰は、かつてこのような男性同士のもたれあいを「疑似同性愛的」という言い回しを使って表現したが(浅田[1991])、その後これはホモソーシャルの典型と言いなおすべきであるとして撤回している(浅田[1996])。

6 エロスは性器結合による快楽とは無関係だと主張したいのではない。性器結合から得られる快楽を排除したエロスは、逆に性器中心主義的だといえるだろう。性器の結合から快楽を得ているにも関わらず、それでもなおそこを超え出て広がっていくものがエロスだといえる。

7 性差概念についての詳細な検討は、次章で行う。

8 同性愛は病気であるとか、治すべきだとかを暗黙に主張しているのではない。また、精神の病気は社会的に構築されたものだから病気とみなして治療したりするべきではないと主張しているのでもない。というより、同性愛そのもの、精神病そのものについてはここではなにも触れていない。ここでは、スティグマとしての性質、つまり、それは本質的に異常であり、そのような属性をもつ個人には異常なものが本質的に備わっているとみなすことを可能にするような性質について述べている。また、同性愛の表象(キャンプ!)も、精神病の表象(スキゾ!)も美的に消費されたことがあるという点で似ているが、それらもやはり表象(スティグマ)でしかない。だが、これらのことはむしろ、本質(=「それ自体」)と区別されるその表象があるというよりも、表象のレベルこそが問題の本質であることを示しているのではないか。

9 実際には、日本のHIV感染者の統計上の数値において、MSM(Men who have Sex with Men)の患者数の上昇率は落ち着いてきているものの、それ以外の患者は急増している。しばしば「リスク・グループ」と名付けられ(把握され、集団として固定され、支配・統制され)てきた同性愛者たちは、リスクに関する情報を行き渡らせるコミュニティを発達させていたからだと思われる。また、エイズへの不安を投影するスティグマとして、ゲイ男性と並んでたびたび利用されるのが、プロスティテュート達である。STD(性感染症)の感染率も、性労働者よりも、女子大生のほうが高い。松沢編[2000:308-310]参照。