第2章 反本質主義的理論について

この章では、セクシュアリティの社会学的研究が不可避的に含意する、社会理論における反本質主義(anti-essentialism)の立場について考察したい。社会学は従来、本質主義に対する批判を行うものとして定義されてきた。それは確かに間違いではない。社会学はその客観性を保つために、自明なもの/本質的なもの/現前しているもの(たとえば「女」の「身体」に「母」は現前(presentation)しているものとして措定される)として反省にさらされることもなくやり過ごされている事象に対して、その無反省の微睡みから脱することでしかアプローチしえない。社会がこのようにあること、そのこと自体が驚きに値することであって、このように社会が成立していることの条件を発見することが、社会学という学問に設定された認識利得である。

近代家族論のひとつのテーマ「なぜ女は主婦となったのか」──このような問いは、「当たり前じゃないか、女は結婚をしたら主婦とよばれる。そのようになっているんだ」という自明性に微睡んだ「答え」の中からは決して生じてこない。社会は、このようにあるが、別様でもありえた。社会学は、別様でもありえたその可能性全体との偏差から、「このようにある社会」を発見するのである。この立場を社会的構築主義などともよぶ。

だが、ここでいう「本質主義に対する批判」とはいったいどのようなものであろうか。

社会学は「社会はこのようなものであってはならない」と述べるだろうか。一部の論者がいうように、「反本質主義者はネガティヴな批判ばかりしている無責任な立場」なのだろうか。このことは、critique/Kritikということをどう考えるかという問題だと思われる。通常critiqueは批評とか批判とか訳される。社会学はこの語感からいって、社会をcritiqueする学問であるといってよい。しかしここでいう批判/批評からは、「~してはいけない」とか「~べきだ」といった命題は必ずしも導かれないのではないだろうか。批評=批判を規範命題に矮小化してはならない。「差別があるから、やめなければならない」というのではなく、「この差別を存続させることによって、何が/誰が、いかなる利得を得ているのか」というコスト計算を行うことが批評/批判である。「ジェンダー・カテゴリーは所与のものではなく社会的に構築されたものである」という命題からは「カテゴリーそのものを撤廃しなければならない」という命題を導くことはできない。クリティカルであるとは、ジェンダー・カテゴリーの存在によって社会はいかなる利得を得ているのかを計算することである。キース・ヴィンセントが定義したように、クィア・セオリーは、《「ゲイもレズビアンも人間だから、差別しないで私たちも社会に入れてください」といういわばリベラルな善意に訴える戦略の代わりに、「私たちを差別することによって社会は何を得ているのか」と問い直す》(ヴィンセント[1999:94])。

第1節では、ジェンダー論において蓄積されたジェンダー概念を再検討する。周知の通りジェンダー論は、「性差」や「性役割」を所与のものとして扱う社会を批判する、フェミニズムの問題意識を継承している。だからジェンダー概念は、その成立根拠からして、社会的構築主義の立場を徹底させていこうというベクトルを内蔵しているといえる。かつてのジェンダー論においては、セックス(生物学的性差)という変更不可能なものを基盤にして、ジェンダー(社会的・文化的性差)という比較的変更可能な領域が構築される、という議論がなされた。しかし本節では、むしろジェンダーの方がセックスに先行するという近年の議論まで参照したい。ジェンダー概念の含意はもはや、男と女が存在する、という人類に普遍的であると思われた観念をすら相対化してしまった。

第2節では、ジェンダーの構築性に対する認識を引き受けることで、社会分析をしていく際に(すでに述べたようにそれはコスト計算である)いかなる認識利得を得ることができるのかを、検討したい。そのことで、次章以降でのアイデンティティ・ポリティクスに関する、いっけん反本質主義=構築主義的認識には反しているような議論へのパースペクティヴを開いておこうと思う。

第1節 ジェンダー概念の再検討

2-1-1. ジェンダー概念の展開/転回

第1章で論じたように、セクシュアリティという概念がある「現実」を指し示すものとして存在しうるのは、「ある性別を属性として持つ者は、必ずその反対の性別を持つ者を欲望する」という「一貫性の原則」が規範として貫徹される限りにおいてである。その「規範」がない限り、正常なのか逸脱的なのかを判断すべき、対象としての「現実」が立ちあらわれてこない。

この「原則」は、性別を所与の、それ以上問いなおすことの不可能な領域として想定している。人間は必ず性別をもって生まれ、存在していることは自明の前提とされている。このことは、かつてのフェミニズム/ジェンダー論にもいえることだ。

ジェンダー概念は周知のとおり、セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的・文化的性差)の間のズレを可視化したものである。フェミニズム/ジェンダー論の主要な主張は、「生まれか、育ちか」という問いに対して、「育ちである」と解答することであった。「女として生まれたのだから、女らしく育つはず(べき)だ」という規範の自明性に対抗して、「だから」という接続詞に隠れた権力の存在を暴きたてるのがその役目であった。しかしこのような議論においても、やはり男と女というカテゴリーの存在自体は疑問に付されていない。「セックスはある、しかしジェンダーは変更可能である」というわけである。本稿では、性別カテゴリーを本質主義的に所与とすることが、いかなる条件から導かれているかを考察したい。そのためにまず、ジェンダー論の展開を、教科書的に短く整理してみておこう。

フェミニズムの文脈で、セックスから相対的に自律したジェンダーの領域の存在を指摘した研究者として、R.J.ストーラー、ケイト・ミレット、アン・オークレー、マネー&タッカーらの名前が挙げられることが多い。たとえばMoney;Tucker[1975=1979]によれば、男あるいは女として育てられ、第二次性徴期に性別の判定が間違っていたことに気付いたケースの場合、カウンセリングによってジェンダー(心理的性別)をセックス(生物学的性別)に合わせるより、性転換手術によってセックスをジェンダーに合わせた方が、より抵抗が少ないのである。患者のジェンダー・アイデンティティは、その年令までに強固に形成されてしまっているからである。この事例が示しているのは、(1)セックスとは相対的に自律したものとしてジェンダーが発達するものであるということ、(2)ジェンダーの拘束力が非常に強いものだということ、言い換えれば人間にとって性別とはジェンダーのことであるということ、この二点であろう。

このジェンダー概念は、社会学理論に「性役割」として導入された。井上輝子によれば、《ともすると生理学的還元主義に陥りかねない『性差』概念に替わって、性役割概念を導入すること》(井上[1995:3])で、ジェンダーの可変性を明らかにできるようになる。この「性役割」概念は、80年代までの女性学におけるキー・タームであった。

しかし、次第に「性役割」論はその問題が指摘され、批判にもさらされるようになる。「性役割」論は確かに、パーソナリティやアイデンティティといったものを、「役割期待」による社会化としてとらえることで、生物学的決定論のような本質主義的想定から逃れている。だが、問題の「役割」を性別を軸に配分し、階層的に序列する社会構造、つまり《「性役割期待」を生み出す社会構造は、描き出されることなく、あたかも「性役割」の外部にあるかのように論じられるにとどまっている》(江原由美子[1995:45])。このとき、「役割期待」を強いてくる社会構造も、役割配分の軸となる性別それ自体も、所与とされ、固定的なものとしてとらえられてしまう。

この批判を引きついで、80年代にジェンダー論に「転回」が起こる。フランスの唯物論的フェミニスト、クリスティーヌ・デルフィは、ジェンダーを、男あるいは女という所与の項としてではなく、差異として分割する原則として、しかもそれが階層的な支配関係を生産するものとしてとらえた。デルフィによれば、《「性役割」は、階層的な労働の分業の前に起こったのではなく、後から起こった》(Tuttle[1986=1991:141からの重引])のであり、セックスという所与のカテゴリーに基づいてジェンダーが構築されるのではなくて《むしろ、ジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象となり、したがって知覚カテゴリーの対象になったのだ》(Delphy[1980=1996:183])。ここにいたって、(1)ジェンダーがセックスに先行するものであること、(2)ジェンダーとは政治的な差異化のことであること、これがジェンダー論の前提となった。

また、フェミニズム批評を歴史学に取り入れ、ジェンダーの歴史化を企てたジョーン・スコットは、セックスとジェンダーの二分法自体を批判し、ジェンダー概念を次のように定義する。すなわちそれは第一に《両性間に認知された差異に基づく社会関係の構成要素》であり、第二に《権力の関係を表す第一義的な方法》である(Scott[1988=1992:75])。スコットは、前者の定義の下位要素のひとつとして、文化によって用意されたシンボルをあげるが(そこまでは以前のジェンダー論と同様であろう)、そのシンボルの解釈を制限する規範として、「科学的」教義をあげている。それはかつてジェンダーに先行するものとして想定された、セックスという概念が指し示していたものだろう。加藤秀一のいうように《これまでの sex/gender 概念は、性差のうち自然科学(医学・生物学・解剖学・生理学・脳生理学等)によって本質規定を与えられるような部分を特権的に gender の外においてきたのだ》(加藤[1998:115-6])ということが明らかにされているのだ。つまり、自然科学の認識といえどもそれは《肉体的差異に意味を付与する知》(Scott[1988=1992:16])のうちのひとつに過ぎないし、知は歴史的なものとして相対化されなければならない。

こうした認識上の転換に対応して、加藤は次のように述べている。

性差の中に特権的な水準を設定する sex 概念を棄却し、性差の認識論的相対性を表現するために(…)「性的差異[性差]」(sexual difference)概念に代えて、「性別」(gender)の系としての「性別差異[性差]」(gender difference)──より正確には、「性別差異表象[性差表象]」(representation of gender difference)──概念を用いる必要があるだろう。(加藤[1998:116])

90年代以降のポスト構造主義を組み込んだジェンダー論は、むしろセックスこそが構築されたものであるとしている。セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーなのである。《ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。……セックスを前-言説的なものとして生産することは、ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置がおこなう結果なのだと理解すべきである》(Butler[1990=1999])。ジェンダー論は、セックスを所与としてジェンダーの構築性を問うのではなく、セックス所与とするようにジェンダー構築するメカニズムを問うのである。

そこで、ジェンダー論における現在の到達点をみるために、以下では、加藤秀一の『性現象論』(1998年)において展開されたジェンダー概念の整理1 と、バトラーの『ジェンダー・トラブル』(1990年)におけるジェンダーのパフォーマティヴィティと法の産出機能についての議論を検討したい。

2-1-2. 性差と性別分割

繰り返し述べてきたように、従来、男女間の差異は生物学的性差(sex)と文化的・社会的性差(gender)とにわけられてきた。フェミニズムの主張は、性差はあるが、それには二つのレベルがあり、ジェンダーをセックスによって決定されたものとしてはならない、というものであった。だが、「性差」という概念がこのままでは曖昧であるのは明白だ。

たとえばマネーとタッカーは、すべての男女に普遍的な生物学的な差異は《男性のみが妊娠させることができ、月経、妊娠、授乳が可能なのは女性だけ》という《四つの基本的な生殖機能》(Money;Tucker[1975=1979:51-53])にしかないと述べている。しかしここであげられている差異は、男と女という項同士を比較したうえで発見される性差ではなく、男と女を区別するための指標である。生殖機能の差異が性差であるといってしまっては、性別それ自体が性差であるといっているに等しく、無内容なトートロジーである。《男女間の差異を問題にすることと、「男」と「女」との分割そのものを問うこととは違う。その分割の契機は、性差とは異なる水準に属する》(加藤[1998 :116])。男女の分割の契機を「性差」に含めてしまうことは、この分割を、それ以上問いなおすことのできない、不動の絶対的実在にしてしまう。ジェンダーとよんでいるものと区別されるセックスを、生殖機能の差異とするなら(本当はすでに述べたようにそれ以外にも、自然科学によって規定される差異はあるが)それはすでに生物学的「性差」などではない。つまりセックスを生物学的性差とよんでジェンダーの外部に置くことによって、むしろジェンダー概念はそのそもそもの意図に反して、セックスの絶対的専制といったものに加担し、再生産さえしているのである。

ではどのように考えればよいのか。《生殖機能の差異は、「性差」の構成要素ではない。それは「性差」の条件であり、それゆえ「性差」とは別の論理階型に属する「性別分割」(gender division)の概念をもって表わされるべきである》[ibid.:117]。この加藤の整理はきわめて明解である。従来「性差」と考えられてきた生殖機能の差異を、性差そのものの前提条件とすることで、「性差」から棄却するのである。

性別分割とは、生殖において果たす役割の非対称性によって、存在者が男性と女性とに二分割されることである。この結果としてすべての存在者には男性あるいは女性いずれかの値が性別属性として与えられる。また性別差異表象とは性別分割によって得られた二種類の存在者集合間に見い出される、何らかの指標に関する差異の表象である。

生殖=再生産を種の条件とみなすことのできる限りにおいて、性別分割とは超歴史的な所与である。[ibid.:118]

ここでの加藤の指摘にはいくつかの重要なポイントが含まれている。まず、性差とは、任意の個人間の差異ではなく、集団間の統計的な差異であるということ。男と女をつれてきて、男の方が背が高かったとしても、それは性差ではない(同様の理由から、男の肌が黒かったとしても、女の髪が金髪だったとしても、それは性差ではない)。つまり性差という考え方の背後には、あらかじめ、集団を発見できるためのカテゴリーが所与として前提されているのである。女にくらべて男のほうが体力がある、という性差の規範は、あらかじめ性別のカテゴリーに分けたその後で、統計学的に平均値をとったものであって、体力測定の上位/下位から導かれたカテゴリーに基づいているのではない。

また、性別分割という概念の導入によって、性差と性役割との癒着に批判的に目を向けることができることが重要である。フェミニズムが性差の無効性を主張するのは、性差が性役割の正当化に使われてしまうためである。しかし性差という概念をこのように厳密に考察してみると、性差がないという主張がおかしいことは明らかだ。むしろ、性差というものがなぜ発見され、語られ、性役割を正当化するのかということを疑問に付すべきであろう。加藤があげる例は、P:「子供を産むのは女である」という事実命題に接続されるp1:「女が育児をするべきだ」という規範命題である。これは「だから」という接続詞で結ばれることで、いっけん自然にみえる。しかし、Pには、p2:「男が育児をすべきだ」、p3:「両性が協力して育児をするべきだ」のどちらの規範命題をも、「だから」で接続できる。それにもかかわらずp1のみが自然に思えるものとして流通するのは、その接続に何らかの社会的力が作用しているからである。《性別と性役割とのあいだに巣くうこの過剰な領域こそ、われわれが性差表象と名づけるものである》[ibid.:126]。つまり、性役割を性別に関連づけて正当化する際に語られる「フィクション」が、性差なのだ。性差がある、だから性役割がある、と考えるべきではない。その逆なのだ。

さらに、本稿での議論において最も重要な含意は、性別分割そのもの、つまりこの世に男と女が存在するという観念そのものは、生殖の問題に関わるその限りにおいて成立しているということである。もし生殖というものをわれわれが意識にのぼらせることがないのなら、性別に関わるいかなる問題も(性別も、性差も、性役割も、セクシュアリティも)考える対象になりえないのである。

生殖機能以外の、生物学的「性差」と考えられてきたもの(つまりセックス)は、もし生殖という観念が前提となっていなかったら、それが「性」と関わるものとして考えられることすらないだろう。もし生殖というものの存在しない世界があったとしても、性器などの身体器官によって存在者を分割する意味論的な作法は存在するだろう。しかし、その分割が開く世界は、現在のわれわれが性という現象についてとらえている世界とはまったく次元の異なったものであるだろう。

近年では、脳生理学的性差が、生物学的性差を考える際に最も重要なものとなってきている。性別について考える時、それはすなわち脳について考えることであるという時代がくるかもしれない。だが、《それもまた脳の機能の差異が、生殖機能の差異と結びつくかたちで把握される場合に限るはずだ》。なぜなら、《身体上のある差異は、それ自体では「性別」ではない》からである。《脳の機能そのものからいかにして性別を(性差ではなく)導出し得るか。そもそも何を考えればこの問いについて考えたことになるのかすら、私にはわからない》[ibid.:127]。

ここで、本稿の第1章での議論と同じ結論が導かれる。つまり、《おそらく真の問題は、われわれの社会(…)の根本与件としての、生殖=再生産(reproduction)という至上命令なのであろう》[ibid.:120]。そしてそれを加藤は《再生産主義(reproductionism)》とよんでいる。本稿の第1章で「生殖イデオロギー」とよんだものと重なりあっていることはいうまでもない。

ジェンダーとセックスの区別は、生殖というものを特権的なものとして意味付けながら、性別カテゴリーを再生産することに加担していた。あるいは、性別が分割されるその限りにおいて、セックスという不可侵の領域が生産されているのだ。この意味で、かつてのフェミニズム/ジェンダー論はカテゴリーの本質主義に陥っていたことは明らかであり、そのことが批判されることになる。次に、カテゴリーの実在論に陥ってしまったフェミニズムを内在的に批判し、セックスがいかに生産されるものであるのかを論じたジュディス・バトラーの議論を参照しよう。

2-1-3.ジェンダーのパフォーマティヴィティと法の産出機能

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(1990年)は、フェミニズムが、「女」というカテゴリー、あるいはアイデンティティを前提とし、それが政治的な表象/代表を求める時の主体であると考えてきたことを、内在的に徹底して批判している。そこでは、カテゴリーの前にあらかじめ解放されるべき「主体」があって、それが「女」と名付けられることで表象/代表される、といった想定が否定されている。むしろ「前提となる主体」とは、名付けられた後で、その名付けを正当化するために構築されたものであり、表象/代表の「原因」ではなく「結果」なのである。ニーチェ、ミシェル・アールらの《実体の形而上学批判》をジェンダー・アイデンティティに関する批判に引きつけながら彼女が述べるているように、心理学上の〈人格〉を実体的な事物としてみなしてはならない2 。それは文法(主語と述語の構造)への信仰によってもたらされるのであり、「われ思う」の「われ」は、「思う」の後に構築される概念である(Butler[1990=1999:52])。

このようなバトラーの思考は、構造主義的な言語学から言語行為論へと展開されていった概念の蓄積を参照している。ソシュールが19世紀的な言語学=音声学を批判して音韻論を提唱したように(Saussure[1949=1972])、音声学のいう差異は、実はすでに意味を前提している。ある音声系列が、他の音声系列と区別されるのは、音声の差異ではなく意味の差異によってである。日本語で「ら」というとき、 r で発音しても l で発音しても、「ら」に聞こえるのは、音声ではなく意味の差異的体系で弁別するからである。このように考えると、ジェンダー・カテゴリーが意味の体系として存在し、物質としてのまっさらな身体が、意味付けされるのを待っている、という構図を描いてしまう。しかしバトラーはそうではないという。むしろ身体は、《政治的に意味付けられ維持される、個人的かつ社会的な一対の境域》(Butler[1990=1999:73])であり、そもそものはじめから政治的に存在しているものなのだ3 。「身体という意味」を担ったもの以前の、「意味のない身体」を想像することは、倒錯/錯覚なのである。バトラーは、「意味の体系」と「意味付けされる実体」、という構図──それはいわば権力と被抑圧者という構図だろう──を棄却する。そして彼女は、反復される言説の中に権力を見い出したフーコーの議論を引き継いで、反復される行為の中にジェンダー・カテゴリーの再生産をみている。言語行為論の言葉でいえば、ジェンダーとは行為遂行性(performativity)なのである。

ジェンダーはつねに「おこなうこと」であるが、しかしその行為は、行為のまえに存在すると考えられる主体によっておこなわれるものではない。(…)ジェンダーの表出の背後にジェンダー・アイデンティティは存在しない。アイデンティティは、その結果だと考えられる「表出」によって、まさにパフォーマティヴに構築されるものである。[ibid:58-59]

オースティンの言語行為論によれば、内容の真偽の決定できる「事実確認的(constative)」言明に対し、それが話されることによって何かが行われる言明を「行為遂行的(performative)」言明が区別される。たとえば「私は結婚している」というコンスタティヴな言明は、その真偽が決定できる。しかし結婚式の場で「私は誓います」といった場合、それはその行為によって結婚を成立させているのであって、真とか偽といったことが問題となる種類の言明ではない。つまり、「意味される現象」と「それを表現する行為」といった図式とは違った使用がされるものが行為遂行である。このコンスタティヴ/パフォーマティヴの区別は哲学者デリダによって批判されることになるが4 、パフォーマティヴという概念は哲学・言語学において展開し、注目される。

「私は誓います」という言明がパフォーマティヴであるのは、それが結婚式場というコンテクストの中において発せられるからである。だが、コンテクストはいかようにもとりうる。たとえば「結婚という儀式を行う人類というもの」のメタ・レベルにたてる宇宙人のような存在は、この言明を、結婚をとりおこなうというコンテクストにおいて読むとは限らないだろう(たとえ発話者たちが「結婚」というコンテクスト内部にあることを、観察者たちが知っていても)。あらゆる行為は、コンテクスト自体を再生産し、そのコンテクスト内部においてパフォーマティヴであることができるが、コンテクストを再生産しようとするその反復性/引用性において、常に再生産をミスする可能性をはらんでいるのだ。バトラーは《ジェンダーとはオリジナルのない一種の模倣》(Butler[1991=1996:124])だという。ジェンダーにオリジナルがないため、それは絶えず反復/引用されなければならず、失敗の可能性にさらされている。

バトラーはこのパフォーマティヴィティの問題を、名付けられるものを生産する言説の権力と結び付けて考察している。フーコーが『知への意志』で述べている法システムの機能を、バトラーは次のように要約する。

法の権力は、単に表象/代表しているにすぎないと言っているものを、じつは不可避的に「生産している」のである。したがって政治は、権力のこの二重の機能──法制機能と産出機能──に注意を払わなければならない。実際、法は「法のまえに存在する主体」という概念を生みだし、そののちそれを隠蔽するが、その目的は、言説による形成物であるにもかかわらず、それがすべての基盤をなすきわめて自然な前提として、そして次には、法の規制的な支配を正当化するものとして、引きあいにだすためである。(Butler[1990=1999:21])

繰り返し述べてきたように、起源としてのセックスがジェンダーの「まえに」存在するようにみえるのは、強制的異性愛制度を中心とした生殖イデオロギー、再生産主義に駆動される権力=「法」によってである。バトラーは、法によって表象/代表されることができるからといって、無批判に政治システムが生産したジェンダー・カテゴリーを受け入れ、フェミニズムがそれに立脚することを危険なこととみなしているのだ。

政治システムは、名付けることで「主体」を表象/代表するため、われわれはその「名」をかかげて訴え、主体を提示しようとしてしまう。だが、名付けられるまえの主体などなく、むしろ名付けられることで表象/代表「されるべき主体」というものが生産されるのだとしたら、そしてその名付けこそが権力なのだとしたら、名=カテゴリーを引き受けることはとても危険な試みになってしまう。《セックスの「名づけ」は、支配と強制の行為であり、性差の原理に添うように身体を言説/知覚によって構築するよう要請し、そうすることで社会的現実を作りだし、かつそれを合法化する制度化されたパフォーマティヴィティなのである》[ibid.:206]。

もちろん、このような徹底した構築主義の立場は、しばしば批判にもさらされてきた。政治システムが主体の提示を要請している時に、主体の脱構築を行うことは、政治上の危険をもたらすと。たとえばG.C.スピヴァックがいった「本質主義の戦略的利用」が含意しているように、「女」と名付けられているものたちがそもそも一枚岩的でなく、その内部には階層・人種・エスニシティ・セクシュアリティといったさまざまな分割線が引かれているが、それらはたとえ融和することがなくとも利害によって結びつくことができる。だが、バトラーがアイデンティティ・カテゴリーについて危惧しているのは、カテゴリーは常に排他的作用をもっているからである。バトラーは脱構築的・反本質主義的理論に対する批判に対して、《これはアイデンティティ・カテゴリーを使用しないようにという議論ではなく、使用するたびについてまわるリスクを思い出させる》(Butler[1993=1997:163])と反論する。「クィア」という概念は、カテゴリーの排他的作用を常に意識するようによびかけるものである。だから、

クィア主体の批評はクィア・ポリティクスの民主化の継続に欠かせない。アイデンティティ用語は使われるべきであり、「アウトであること」が確信されるべきであると同様に、これらの概念はこれら自体が生産する排他的作用を批判されなければならない。「アウトであること」は、だれにとって歴史的に利用でき、経済的な選択であるのか? (…)だれがこの語のどのような使用によって描写されるのか、そしてだれが排除されるのか?[ibid.:162]

クィア主体の批評が必要なのと同様、あらゆる主体の、名付けられたものの批評が必要であろう。それこそが、「名付ける権力」にトラブルを仕掛ける方法なのだから。

90年代のクィア理論以降、(1)カテゴリー/アイデンティティが、そもそも差異をはらんでいるはずの集団を代理/表象(representation)することへの疑念、(2)個人が統一的で一貫した存在であるという近代的想定、すなわちアイデンティティ概念そのものへの疑念、これらが提起され、これらのことを踏まえていない理論も政治も危険なものとみなされるようになる。これはわれわれの日常的な感覚からも、精神の奥底からもよびかけてくる疑念である。《与えられている言葉で語ろうとすれば、まさにその言葉が、自己のうちに、それによっては語りえないもの、常に語り残されてしまうものを浮かび上がらせる。(…)またそれにもかかわらず、主体はそうした言葉の内部でアイデンティティを求めて自問し語ることへと促されている。そしてさらには、そのように促されてしまうことそのものが疑問に付されている》(草柳[1998:29-31])。

カテゴリー/アイデンティティというものと、存在すること・実存することの間の亀裂の感覚、与えられた洋服の着心地の悪さの感覚、こういったものを鋭敏にとらえていかなければ、理論も政治もますます無知の効果に巻き込まれていくことだろう。

次節では、カテゴリーや「名」といったものを本質的なものとしてではなく構築されたものとしてとらえることを通して、社会理論にどのような変化が生じうるかを概観してみたい。もしそこになんら認識利得が生じないのであれば、構築主義はたんなる無駄な知的ゲームに堕してしまうだろう。バトラーらポスト構造主義者の理論と、われわれの日常感覚を汲み取った社会理論は、どのようなものだろうか。そしてそれは可能なのだろうか。


1 加藤[1998]に収められた論文のうちもっとも古いものは1990年という早い時期に書かれた論文であり、非常に先駆的であるといえる。ジェンダー論の文献としてもっとも優れたもののひとつであることはまちがいなく、もっと注目されるべきであると思われる。

2 〈人格〉が因果帰属上の概念ではなく選択帰属上の概念であることは、第1章第1節でのルーマンの議論ですでにみた。また、社会的構築主義の立場からは、〈パーソナリティ〉が、他人から区別される個人の内面に存在する態度や性向や気質の原因であるという、伝統的な見方が批判され、社会的に構築されたものであるとされている(Burr[1995=1997:26-49])。もちろんこれは「生まれではなく育ち」という話しではない。

3 《全体的かつ個別的に》(Foucault[1979=1983])というフーコーの議論を参照。また、身体を生産しかつ管理する権力について、内田隆三[1997]参照。

4 ジャック・デリダによる有名な言語行為論批判によれば、ある言明がコンスタティヴであるかパフォーマティヴであるかを区別することは不可能である(Derrida[1972=1988])。あらゆる記号は、それを話した現前的な(いまここの)主体と結びつき、その本来のコンテクストにおいてコンスタティヴな機能を持つが、同時にその記号はあらゆるコンテクストへ引用可能である。これはデリダの有名な区別で、前者がパロール(話し言葉)、後者がエクリチュール(書き言葉)の機能である。言語や記号は本来、引用可能性に開かれていることによって存在している。東浩紀[1998:14-18]を参照。