第2節 シンギュラリティについて

2-2-1.カテゴリーからの剰余

バトラーの、法の「まえの」主体は法の産出機能によって生産された偽造物であるという主張は、カテゴリーというものを根本からゆるがせる。カテゴライズされた、アイデンティティを持った主体概念は、法の中で考えられたもの、つまり表象にすぎないからである。この節では、カテゴリーを扱う際の問題をより抽象的なレベルで議論し、社会理論上の含意を確認しておきたい。そのことは、クィア理論あるいはクィア・ポリティクスの見通しをたてることに貢献する。なぜなら、クィアという概念は、そもそもカテゴリー/アイデンティティの否定的な側面を照射するものであり、カテゴリー/アイデンティティが排除の力を行使することによって成立するものであることを思い起こさせるものであるからだ。

カテゴリー/アイデンティティの持つ「排除の力」を、どのようにとらえるべきだろうか? それをどのように問題化すべきなのだろうか? もしそれがたんに抑圧的でしかない「排除の力」であるとしたら、われわれはそれを完全に否定すべきなのだろうか? ここに存在する問題構成を整理し、吟味しておかなければならない。ここでは、世界を把握し、カテゴリーの内部へとあらゆる事象を回収する力を、哲学の概念を使って考察してみよう。

まず、論理実証主義における記述理論の立場では、あらゆる存在者はカテゴリーの内部に回収されうる決定可能なものである。たとえば固有名は、確定記述の束であるとされる。A氏は「学生である」「社会学専攻である」「男である」「身長171cmである」……と、その確定記述を無限に重ねていくことによって決定可能である。S ist p1,p2,p3……とすることで、Sはシステムの内部に位置していることになる。どんなに珍しくて変わった人間でも、〈人間〉のカテゴリーに包摂される限りでは一般的である(〈一般─特殊〉のセリー)[下図]。換言すれば、あらゆる〈特殊〉は、〈一般〉の契機において〈特殊〉であるということができる。つまり、この犬もあの犬も、動物の契機においてともに犬であるのだ。

しかし、反記述主義の立場からいえば、固有名にはカテゴリーに回収されない剰余があるとされる。どんなに私がありふれた存在だったとしても、「この私」というときの「この」の方は、取り替えがきかない、単独的なものである(〈普遍─単独〉のセリー)[図1]。大量生産品であるこの消しゴムは、消しゴム〈一般〉に回収(=決定)されるが、「この」消しゴムは、代替不可能なものである(=決定不能)。この剰余、決定不能性を〈単独性〉(singularity)、あるいは〈この性〉(this-ness)とよぶことにしよう。

ある男が失恋したときに「女は他にいくらでもいるじゃないか」と慰めるが、こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、この女に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この女は、決して女という一般概念(集合)には属さない。〔…しかし〕このように慰めるほかないかもしれない。失恋の傷から癒えることは、結局この女を、たんに類(一般性)のなかの個としてみなすことであるから。(柄谷[1994:14-15])

われわれがカテゴリーの排他的作用とよんできたものは、この決定不能なもの、シンギュラリティ、「この性」を、「たんに類(一般性)のなかの個としてみなす」ような態度に他ならない。科学には、法則定立的科学以外にも、歴史学のような個性記述的科学がある。一般的な法則だけでなく、特殊な個物を扱うことも科学の関心の内にあるといえる。だが、科学は個物の個別性(singularity)にはいっさい関心を持つことはない。たとえば「家族」という事象の一般的モデルを定立するのではなく、フィールドワークとエスノグラフによってある特定の特殊な家族を記述するタイプの社会学者がいたとしよう。しかしこのときでさえ、この社会科学者はその家族を「家族」として発見することができたから記述できるのであり、それが「家族に関する記述である」として納得可能なコミュニケーションを生じさせるような記述になりうるのは、この観察者・記述者が家族でないものも含んだあらゆる事象の中から「家族である」ものを見つけ出し、それに向き合っているのだということを、読者が理解できる──つまりこの観察者の予期を予期できる──かぎりにおいてである。つまり科学は、他にふたつとない事象を対象とするときでさえ、そのシンギュラリティに向き合うことはないのである。

また、〈出来事〉(Ereignis)のシンギュラリティについても同様のことがいえる。“第二次世界大戦”は“戦争”である、といってしまっては、“第二次世界大戦”のシンギュラリティは失われる[ibid.:13]。ある出来事は、誰に経験されたのかによって、相貌を変える、つまり同一性(identity)はない。だが、“戦争”という同じ名前でよばれることによって、同じである(same)といえる。単独的なものとしての出来事は、「物語」に回収されることで、意味づけられ、必然的なものとなる。

この決定不能性と決定とは、相互に排他的ではない。たとえば、コップがコップであるのはそれがコップとして使用される限りであって(これをコップについてのコミュニケーションとよぶ)、宇宙空間に物質として漂っているだけでは、コップではない。これは、未規定のコップと規定済みのコップがある、ということではない。すべてのコップは、使用されながら常にすでに宇宙空間を漂っている。一つの物体として単一性(singularity)をもつこれは、シンボリックに意味を負って使用されるという投企(engager)の責任を帰される。これはコップがパフォーマティヴに構築されることを示しているのであって、意味付けされる「まえの」(未規定の)物質があらかじめ存在するということではない。

ここはパフォーマティヴィティ(行為遂行性)について、最も重要でかつ誤解をさそう点でもある。パフォーマティヴは、つねに引用/反復であるが、それがコピーであることを隠蔽し、オリジナルという神話をよびよせる。そのとき、「意味付けする体系」と「それを剰余する物質性」とに分割する時、物質性がオリジナルとして神話化されてしまう。しかしこの物質性こそパフォーマティヴに構築されるものであり、なおかつ引用/反復のミスを誘うものである。われわれは、オリジナルの神話の引用性/反復性を暴くために物質的なものに接近し、語ろうとしなければならないが、しかし物質的なものの神秘化に加担することは、オリジナルの神話のもうひとつの罠にかかっていることになる。

哲学史における論理実証主義は、この物質性について「沈黙しなければならない」と断言するものであったとすれば、現象学はむしろこの物質性に接近しようとしたものであったといえるだろう。

論理実証主義は、前期ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』('22年)に始まる。ヴィトゲンシュタインはここで、「思考可能なもの」と「思考不可能なもの」を分けている。あらゆる事象にはそれに対応する命題表現があり、その命題表現の総体が「世界」である。つまり、事象の総体=命題表現の総体=世界である。われわれは命題表現しか有意義(論理的)に思考できないため、思考の限界は世界に一致する。つまり、世界の外側については思考することができないのだ。だから、『論考』は《語り得ぬことについては沈黙しなければならない》という言葉で締めくくられる。では「思考不可能なもの」とはなにか。たとえば、「世界には花瓶と花瓶でないものがある」という命題表現があるとする。「花瓶」とは否-花瓶ではなく、「花瓶でないもの(否-花瓶)」とは花瓶ではないもののことだから、これらは思考可能である。これは論理学においては〈排中律〉といい、〈第三項排除〉の原則は、論理的に納得可能なものとなる。では、「ある」はどうか?「ある」は、〈排中律〉であり、〈第三項排除〉の原則である。これを、〈論理形式〉という。論理形式はいわば〈存在〉(Sein)そのもの、世界を成り立たせているもののことだ。これは世界の外側にあるのだから、思考が不可能だ。「花瓶はあるか否か」という問いは思考可能だが、「なぜ花瓶はあるのか」という問いは、有意義に思考できない(What~forではなく、Whyの“なぜ”)1

さて、論理実証主義から分析哲学のラインに対し、ヨーロッパの哲学、現象学が対立させられる。ハイデガーの『存在と時間』('27年)は、論理実証主義と同様、存在者(存在するもの)と存在(存在するということそのもの)の間に〈存在論的差異〉を見い出す。しかし、哲学のアイデンティティを存在への問いに設定することによって論理実証主義と対立する。存在への問いは、すべての存在者への〈存在了解〉を遂行しながら存在する唯一の存在者、〈現存在〉(Dasein)=人間の解明へと向かう。

論理実証主義と現象学/存在論の差異はどこにあるか。前者は、客体世界をアプリオリとし、それをメタレベルから観察する(このメタレベルについては思考不可能)。しかし後者は、世界の存在を〈世界-内-存在〉(In-der-Welt-sein)としての現存在の遂行を通じて産出されるとする。ここですでに、メタレベルとオブジェクトレベルの階悌区分が破壊されている。大澤真幸は次のように表現している。

存在者は存在する〔~が有る〕。ただしそれは、ある観察者(observer)による(最も広い意味での)指し示し(indication)〔これは~で有る〕の対象としてのみ、そうである。すなわち、任意の存在者は(…)ある観察者に何ものかとして指し示されることによってのみ、存在する。そして指し示しは、ただ空間に区別=差異(distinction)を設定することによってのみ、その対象を同定することができる。というのも、対象を「或るもの(a)」として指し示すことは、その対象を、対象が存在する空間の内部で、「或るものではないもの(非a)」に対する示唆的な区別によって同定すること、に他ならないからだ。(大澤[1988:22])

大澤によれば、存在者はひとつの存在者である現存在=観察者に観察されることよって存在しており、また、現存在はすでにオブジェクトレベル(存在者たちの平面)に含まれているものである。客観的世界(オブジェクトレベル)と主観的世界(メタレベル)、という二元論は批判されることになった。大森荘蔵の〈一元論〉によれば、

意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思い込むが実は世界の中にじかに生きているのである。世界のエアポケットのような「心の中」で喜んだり悩んだりしているのだと思い込んでいるが、そのとき世界そのものが喜ばしくあるいは悩ましいのである。世界には喜びや悩みの種だけがあるのではなく、喜ばしさ悩ましさそのものが世界なのである。(大森[1981:iii])

このような現象学的態度は、論理実証主義がそもそも退けていたことではあるが、しかしその思考の必然性自体は共有していたといえるだろう2

パフォーマティヴィティの理論は、観察という行為を引用/反復とみることで、観察と観察されたものとの間の〈遅延〉に接近する(ここに現象学との違いがある)。この遅延は、システム=法が生産する法の「まえの」オリジナルが、剰余・物質的なものへと読みかえられる可能性を開く。この剰余こそが、システム=法がたえざる引用/反復であることを暴き、引用/反復がつねにミスをする可能性をはらんでいることを示している。剰余=デッドストックはシステムに回収されるのを回避しながら、あるいは回収されたその後でも、常に他のシステムの可能性を開いているのである3

2-2-2.他者とコミュニケーション

ここで哲学上の概念を用いて整理した理論的な転回、(1)論理実証主義的なシステム→(2)現象学的なシステム→(3)パフォーマティヴなシステム、という転回は、〈他者〉を理解するうえでの重要な転回を含意していると思われる。われわれは常に思い起こさなければならないが、あらゆるカテゴリー/アイデンティティを疑問に付し、その排他的作用を問題にする概念としてクィア概念を検討しているのは、法=システムの内部にとどまること(システムを所与とし、カテゴリーを使用すること)がいかなるリスクを生じさせているのかを意識するためである。他者に接近するのに、「沈黙する」のでもなく、意味付与される「まえの」まっさらな身体を想定するのでもない、別の方法をパフォーマティヴの理論は開示したのをみてきた。ここで他者はいかなるものとして立ちあらわれているのか。

たとえば柄谷行人[1995:169]は、〈他者〉を、(1)自己に対して対称的にあらわれるような、コミュニケーションのルールを共有したたんなる「他人」とも、(2)まったくルールを共有せず、完全にコミュニケーションが不可能な「異者」(stranger)とも区別している。それは(3)全くわからないわけでもない、自分と同じことを考えているわけでもない、そうかどうかは証明不可能な、たんに隣にいるような者である。

このような他者の出現は、社会学理論では、「伝達」モデルの破棄をうながしている。たとえばニクラス・ルーマンは《人間にコミュニケートはできない》(Luhmann[1990:31])という。どういうことか? ルーマンのシステム論は、そもそも「人間」をシステムとしてではなく、社会システム(コミュニケーション・システム)にとっての環境(帰属上の意味論的概念)としてとらえているが、社会システムが存続するには意識システムがなんらかのしかたでコミュニケーションを生じさせなければならないし、そうでなければ意識システムは社会システムを観察できない。しかしルーマンのいうシステムは、インプットもアウトプットも行わない〈閉鎖系〉であり、コミュニケーションは「伝達」というかたちでは生じない。ここでは伝統的な懐疑論を参照しながら、〈閉鎖系〉について理解しておきたい。

わたしは今、自分の口の中に「歯」があると感じている。だが、それは心に与えられた印象にすぎないことも知っている。心の外側に物質的ななにかがあり、それが身体─神経系を刺激し、結果的に像が与えられるのだと主張してみても、それを知っているのはやはり心であり、その「もの自体」については、なんら明証的な知識は得られない。わたしは、心が心自身に与えた印象以外のことを、なんら知りえない4

このような心的システムの閉鎖性が問題となるのは、間主観的な状況であろう。精神領域が自律した閉鎖系であることで、自我と他我はお互いに見通し難さに直面させられる。このようなお互いがお互いに見通せない状況を、社会システム理論ではダブル・コンティンジェンシーとよんできた。たとえばA氏とB氏が花を前にしたとする。A氏が「アカ色」という。B氏はそれに合意する。このとき、同じ物質的状態(白色光のスペクトル内のある帯域を花が吸収し、その結果跳ね返ってきた光の粒子が網膜を刺激したという状態)について「同じ」ラベルを貼ったのだから、この二人は「同じ」事柄を知っているかのように思える。だが、心的内容を外部から知りえない以上それは証明不可能だ。ひょっとしてA氏にとって「赤い」ことは、B氏にとって「すっぱい」ことであるかもしれない。張られたラベル=音韻・言語が一致していると、コミュニケーションは滞りなく行われているように見えるが、そのことは必ずしも体験の同一性(identity)を保証しない5

共有された体験はけっして同一性をもつとはいえないうえ、言語上うまくいっているような対話も、それは心的システムの内部から観察した結果そう見えるにすぎない。「紅茶?」に対する「コーヒー」というコミュニケーションは、皮肉でいわれているのかもしれない(「紅茶はおろか、お茶の暇などない!」)し(郡司[1996:174-5])、「石板をもってこい!」といって実際に相手がそうしても、この音声系列全体が「建材」を意味すると考えたのかもしれない(柄谷[1986→1992:7])。哲学者クリプキがいったように、まったく異なる規則に従っている複数のものたちが、あたかも同一の規則に従っているようにみえることはありうる。たとえば「+」記号を、「+の前の数に後の数を加える」と理解しているものと、「+の前の数に後の数を加え、101以上のときは100にする」と理解しているものは、答えが100を超えない限り、同じ問題に同じ答えを出し続ける。したがって、まったく同じ規則に従っているようにみえる相手が、次にどういう答えを出してくるかは、予測することができないのだ(ゲーム理論で考えるとわかりやすいかもしれない)。

人間にコミュニケートすることはできない(「伝達」は生じない)が、それでもコミュニケーションは連鎖する。よって《コミュニケーションだけがコミュニケートする》(Luhmann[1990:31])。心的システムは事後的にそれを観察するのである6

このルーマンのシステム論の最も重要な含意は、ダブル・コンティンジェンシーを解決し、コミュニケーションの連鎖を可能にしている言語の制度的同一性である。コミュニケーションの(指し示すものの)決定不能性をさしあたって無視して生活することを可能にする点がシステムの利点である。社会理論はしばしば間主観性という概念を、なにが準拠システムなのかを示さずに自明のものとして使用してしまう。しかし主観どうしがテレパシーを使って「伝達」することがありえないということをもしも社会科学が前提とするのであれば、準拠システムを明示したうえで(さらに「伝達」を間主観で生じるものではないとみなしたうえで)コミュニケーションなり間主観性なりを語らなければ、有意味な認識はなんら得られないであろう。

近年の社会学は理論軽視・実証重視の傾向がある。理論のようなお勉強をして、なんの役に立つのか、というわけである。しかし、後期近代のような準拠システムのさだかでない時代だからこそ、理論の役割が強調されるべきであると思われる。実証論文の多くは、準拠システムがなんであるかを明示せずにサーベイをかけているため、いったいそこでなにが認識されているのかがわからないことがある。そのとき準拠システムとなっているのは、たいてい調査者の実存か、調査者の所属する共同体(それは「マジョリティ」とよばれるものかもしれない)の特殊なもののみかたである場合が多い。

宮台真司によれば、組織理論家が“組織”を、家族理論家が“家族”を記述しようとする際に組織・家族に帰属する事象をあらかじめ知っていたかのように選別=排除できることを、「社会システムに於けるシステム先取」という。

ある2つの行為が共に“家族”に帰属するものだ、という観察者の見做しは、その2つの行為がある同一のコンテクストに於いてその可能性を開示されたものであることを想定していることと等価である。我々はこの同一のコンテクストのことを「制度」として定義できる。すると、社会システムに於けるシステム先取とは、制度の先取であることになる。(宮台[1986:100])

ある事象・行為が家族に帰属するということを観察者が知っているのは、その事象が本質的に家族に帰属するような性質をそなえているからではない。あるいは、その行為がいかなるコンテクストからも自由になされているにもかかわらず、観察者が恣意的な意味付与を行って家族に帰属させているのでもない。行為者も観察者も(あるいは行為者=観察者)、家族という制度をあてにして意味的に事象・行為を生じさせているのであり、そのことを自己言及的に知っているのである。家族に帰属するとみなされるような行為は、その行為の目的を果たすだけではなく、同時に家族についてのコミュニケーションでもある。家族に帰属する行為が行われうるのは、家族という制度が準拠システムとして先取られているからであるが、当のシステムは、この行為によって存続することができる。そのシステムがシステムの要素自体によって産出されて維持されるということは、自己で自己をぶらさげているような、自己言及のパラドックスに陥っていることになる。社会とは、その意味でパラドキシカルな存在である。「社会」というものが社会学とともに近代に誕生したものだとすると、近代人のコミュニケーションはおのずとパラドクスをめぐって行われるものであるといえるし、社会学はパラドクスを扱うものとしてパラドキシカルに生まれてきたものであるといえる。

第1章でも述べたように、近代の性質が前代未聞の拡がりを見せたのは、抽象的な制度への信頼がもたらす予期の安定性によってである。たとえば初めて訪れる旅行先で体調が悪くなったとき、病院を探し、医者に診てもらうことを当然の選択肢として選べるのはなぜか。そのとき我々は、医者とよんでいる当の個人をではなく、専門家システムを信頼しているのである。いかなる専門的知識と技術をそなえているのか、いかにしてそれが妥当であるといえるのかの判断を、目の前のローカルな範囲にしか限定できないとき、日常生活において処理しなければならない情報処理コストは膨れ上り、行為選択の自由度は大幅に減少するだろう7 。抽象的制度の無関心性は、自分を診察している相手が誰であるとか、昼休みにいかがわしい雑誌を読んでいたかもしれないとか、昨夜子どもの進路のことで夫婦喧嘩をしたかもしれないとか、そういったありうる不安をさしあたって括弧に入れ、相手を医者という役割を担った人格として取り扱うことを可能にする。

近代の制度は主体に役割を付与し、主体を役割の担い手として取り扱うことで、相互行為の自由度、処理しなければならない情報の複雑さを縮減している。このことは、制度が予期の安定性を保証していることを意味している。逆にいえば、コンセンサスとは制度的予期の妥当性に対する合意のことであるといえる。制度は主体を役割として取り扱い、個人は役割の束として取り扱われる。もちろん、2-2-1の議論で述べたように、個人のシンギュラリティはこの役割の束に還元されるものではない。システム論でいえば、役割としての個人は社会システムの環境に意味としてあらわれるものであり、シンギュラーな存在としての個人は社会システムの内部にも環境にも含まれない。いわば、制度的─社会的には決定不能であるような個人のシンギュラリティは、役割を付与する制度の作動の条件となっているのだ。個人は常にシステムの外部にいるのであって、制度的システムが外部に位置する個人を観察したとき、システムの環境に彼は役割として映し出されるのである。

ここで議論したルーマン流のシステム理論が、徹底していて、かつ本稿でのわれわれの議論にとって示唆的であると思われる点は、理論から「人間」が排除されているということである(社会システム理論にとってシステムは社会システムと心的システムであり、人間は意味的な準拠点でしかない)。法の「まえの」主体はコミュニケーション/パフォーマティヴィティの指し示す意味的な帰属先であり、実体ではない。法・システム・コンテクスト・制度は、認識論的な布置なのであるが、身体とか人間とかを存在論的なカテゴリーとして物象化する。従来の社会理論は、物象化された後の物質的なものをどう理論に組み込むかで困難に直面していたが8 、(ルーマン以降の)社会システム理論はそれをたんに意味的な帰属先とすることで、理論からばっさりと棄却してしまう。いわば、あらゆるコミュニケーションは、またシステムは、パフォーマティヴなものであるというわけだ。

2-2-3.他者と倫理

ここまで議論してきたように、決定不能性、非決定の存在、あるいは存在の非決定性をシンギュラリティとよんで、システムが表象するアイデンティティ/カテゴリーの外部へと、他者性へと視線を向けかえていくことが、倫理的に要請されることになる。

存在者を、pと非pとに区別することがシステムPの機能だとしたら、pはシステムPが産み出した表象である。「Sはpである」という決定の政治が行われたとき、主体Sはシステムに従属させられた小文字の主体であるといえる。非pはここで、pという〈無徴〉の項に対して、不純物を含んだ〈有徴〉の項としてシステムに従属させられている。だが、無徴の項が無徴であるためには、その「純粋さ」を維持するために、「不純さ」を帰属する項を必要とする。つまり、第一項があって、それと区別されるものとして外部に第二項が発見されるのではなく、まず外部として第二項を発明し、しかる後に内部としての第一項が成立するのである。外部は内部に作られた外部であり、内部はあらかじめ外部を含んでいる。無徴項が存在するには、有徴項が必要なのだ。

シンギュラリティは、このシステムの外部に位置している。つまり、システムの内部に外部として設置された「外部」ではなく、システムそのものの外部に存在する。だが、存在することが「である」という形で「ある」ことなら、それは外部にすら存在することはありえない。いわば、非存在の存在、存在することの彼方にあるもの、なのだ。

それを、栗原彬は《魂》とよび、表象可能な存在どうしの交通ではなく、非決定の存在の、魂どうしの交通を《共生》とよんでいる(栗原[2000:6])。栗原は、システムによって表象されたアイデンティティを〈仮構現実〉とよんでいるが、この仮構現実によって属領化された他者性が流出すること、《近代的な表象政治を突き破って、その外に現実としての他者、あるいは非決定の存在が溢れ出てくる》[ibid.:8]ことを表象の政治の「第2ラウンド」といっている。それは本稿が「段階論」とよんで検討しているもののことだろう。段階論は、まずシステムによって従属的存在にされている有徴項が、まさにそのシステムから与えられた表象をみずから引き受け、転覆する「第1ラウンド」からはじまる。たとえばホモセクシュアルとして存在させられたものたちが、「ホモ」という名を捨てて「ゲイ」として自分達の存在を再提示(represent)したように。しかしそのことはなぜなされねばならないか。それは、「お前は誰々である」としてシステムから表象されることを拒否し、自分の存在のあり方を自分の手に取り戻すためである。それはシンギュラリティ、つまり非決定の存在、存在の非決定性の回復なのだ。

この「第2ラウンド」が困難なのは、システムの表象を捨てて自己をカテゴリー化しても、このカテゴリーが同様に排他的な暴力性を持ってしまうという点にある。もちろんシステムによる表象・カテゴリー化を逃れる上で、自己定義・自己決定・自己カテゴリー化の有効性は活用されなければならない。それを認めた上で、この自己決定によるカテゴリーの排他的作用とも格闘しなければならないだろう。本稿ではその格闘を、クィア・ポリティクスとよんでいる。

クィア(queer)という言葉は、strangeに近い「奇妙な」「風変わりな」という意味だが、「変態」を意味する、セクシュアル・マイノリティに対する差別語・蔑称であった。「クィア」とよばれて蔑まれてきた者たちが、敵の手から語を奪い、自分達の名として流用・盗用したのである。「変態」というその名のとおり、この概念はとらえどころがない。たんに、規範的な、メインの枠組みから逸脱してさえいればその名を使うことができるのだ。いわばそれは、アイデンティティなきアイデンティティである。それゆえ、クィアという概念で、存在することの彼方にある存在、シンギュラリティを意味することができるだろう。存在の内なる他者性、システムの他者、規範の他者、「このわたし」といったときに「わたし」ではなく「この」の方に宿っているものを指し示すことができるだろう。

栗原彬はシンギュラリティを〈魂〉とよんだが、稲葉振一郎も、哲学者永井均の議論を参照して、リベラリズムとはシンギュラリティを守るものであると定義し、それを《個人の尊厳の核心に魂の尊厳を見いだす立場》(稲葉[1999:76])と述べている。根源的に不可侵のもの、それが〈尊厳〉である。近代的な制度も自由も、尊厳を守るために存在する。このような、政治学におけるリベラリズムの考え方、制度というもののとらえ方と、尊厳・魂・シンギュラリティとの関係をどうとらえればいいだろうか。たとえば、カントは、あらゆる理性的存在者は単なる手段としてではなく、それ自体目的として存在する、と述べ、次のようにいっている。

目的の国では、いっさいのものは価格をもつか、さもなければ尊厳をもつか、二つのうちのいずれかである。価格をもつものは、なにか他の等価物で置き換えられ得るが、これに反しあらゆる価格を超えているもの、すなわち値のないもの、従ってまた等価物を絶対に許さないものは尊厳を具有する。(Kant[1785=1960:116])

ここまでの本稿の議論から整理すれば、〈尊厳〉は決定不能な単独性(他者性)に、〈価格〉は特殊性に対応するだろう。一般的制度は、各人を特殊として、つまり役割として取り扱う。そのとき、制度的な無関心性によって尊厳=シンギュラリティの不可侵性──すなわち自由──が保証されるのである。このとき、正義の立ち向かわなければならないものが、あくまでも他者への倫理であって、道徳的な善のコンセンサスではないことが明らかとなる。制度的アイデンティティ/共同体というシンギュラリティを回収する制度は、政治的な、一般性=価格の平面として現われてくるものではあるけれども、正義はその外部を前提としなければならないのだ。いいかえれば、抑圧された他者、有徴化(mark)されたものの尊厳を回復するには、価格をもった一般的なカテゴリーとして、市場(market=marked)を流通しなければならないが、それ自体は、市場化され得ない、価格のつけられないもののためになされなければならないのだ。市場における貨幣交換は、相手が誰であるかを問わない。制度の無関心性・無差別性が、尊厳の回復に役立つのである。アイデンティティ・ポリティクスという「第1ラウンド」は、そのように、近代的制度の形式性をたよりになされなければならない。そして、「第2ラウンド」は、たえずその市場化が何のためになされているのかを思い起こさせるものでなければならない。

倫理=外部/他者に向かうこと、道徳=内部へ向かうこと、と定義しよう。他者、語りえぬもの、存在しえぬものへと向かっていくという、それ自体不可能な試みへの衝動を、本章で検討している反本質主義=脱構築理論が内蔵していることは、ここまでの議論で明らかだろう。たとえばジャック・デリダは『法の力』で、《法は本質的に脱構築可能である。(…)正義自体は法の外、法の彼方にあり、脱構築不可能である。(…)脱構築とは正義である》と述べる(Derrida[1994=1999:33-34])9 。法の前の主体、つまりシステムがカテゴリーを用いて表象したような主体は、脱構築が可能な仮構現実である。しかし、法の外、システムにとっての他者、存在の彼方にあるものはそもそも脱構築することができない、不可侵のものである。だとすると、本稿がその可能性を探究しているクィア・ポリティクスとは、脱構築の試みであるといえるだろう。それは、カテゴリーへの疑いのまなざしを向けながら、システムに従属させられてきた他者を主体化し、しかる後にその主体化に含まれる排他的作用を反省するという、複雑で困難な正義の試み、倫理なのだ。


1 一般に、近代科学の誕生はWhyからHowへの問いの転換をメルクマールとしているとされる。

2 Dummett[1993=1998]は、分析哲学と現象学が共に「反心理主義」という同じものをルーツにしていると述べている。本節注5を参照。

3 剰余をシステムの「まえの」(観察されるのを待った、未規定の)物質性とみるのではなく、デッドストック、つまり、他のシステムの可能性を開くパフォーマティヴィティとみる理解は、東浩紀[1998]の後期デリダ論に示唆されている。東は、論理実証主義の〈形而上学システム〉、現象学の〈否定神学システム〉を批判し、第三のシステムを〈精神分析的─郵便的システム〉と名付けている。コミュニケーションが常にミクロなミス(誤配)をはらみながら、制度的には破綻しない、という、偶発性を前提としたコミュニケーションを想定するLuhmann[1984=1993:特に3章のダブル・コンティンジェンシー]と類似した観点を提示している。

4 「歯」の例はNegel[1987=1993:11]より。

5 この不可知論、独我論のアポリアに抗するため、哲学の基盤を意識から言語に転換した20世紀初頭の出来事を、〈言語論的転回〉という(現象学も分析哲学と同様、反心理主義をとる)。

6 かつてのシステム論やコミュニケーション論においては、対称的な社会成員、規則=コードを共有することでコミュニケーションが滞りなく行われるような理論モデル(「伝達」モデル)を想定したが、それを退ける。《この提案は、理論史的にみれば、過渡期に考え出されたものなのである》(Luhmann[1984=1993:160])。なお、ここでの他者論は、柄谷行人[1986→1992]による言語ゲーム論の解釈に大きく示唆されている。

7 ギデンズは近代の特徴を、「場所」というローカルなものから社会関係を〈脱埋め込み〉する点に見出している。《モダニティの出現は、「目の前にいない」他者との、つまり、所与の対面的相互行為の状況から位置的に隔てられた他者との関係の発達を促進することで、空間を無理やり場所から切り離していったのである。……脱埋め込みという概念で、私は、社会関係を相互行為の局所的(ローカル)な脈絡から「引き離し」、時空間の無限の拡がりのなかに再構築することを意味しようとしている》(Giddens[1990=1993:33-36]。

8 社会的構築主義が自然科学者に評判が悪いのは、構築主義者が誤って物質的なものを「社会的」とよぶものに含めて語ってしまうからである(サイエンス・ウォーズの類い)。もともと社会的構築主義は、社会的なものを誤って物質的なものに含めて語ってしまう「自然」科学的態度を批判するものであったはずである。準拠システムがなんであるかを明示せずに議論しようとすることの危険性を、構築主義者は自覚すべきであると思われる。

9 デリダの言説がしばしば「他者論」と総称されて要約されたように、脱構築とはそもそも他者への応答のことであったのだが、80年代以降それははっきりと「正義論」あるいは「倫理的衝動」として議論されるようになっている。たとえば、80年代にはアメリカの法学界に批判法学、ポストモダン法学とよばれる脱構築派の法学者が現われている。そのうちの一人、ドゥルシラ・コーネルは《脱構築の背後にある衝動を倫理的願望の中に位置づけるオールタナティヴな解釈が存在する》(Cornell[1992=1999:131])とはっきり述べ、暴力とはなにか、他者への応答とはなにかを、脱構築の立場から定義している。《倫理的関係という言葉で私が示そうとしているのは、〈他者〉(より一般的には他者性)との非暴力的関係への渇望であって、それはその差異と特異性を否定してしまう私物化(appropriation)から〈他者〉を守る責任を孕んでいる》[ibid.:130]。