第3章 アイデンティティ・ポリティクスについて

本稿では、セクシュアリティ・コードによってへテロセクシュアルとホモセクシュアルという区別を導入することの歴史的相対性をみてきた。第1章で参照した竹村和子によれば、近代のセクシュアリティ・コードは〈異性愛/同性愛〉という区別を行ったのではなく、〈「正しい」セクシュアリティ/「誤った」セクシュアリティ〉という区別を行ったのであった。しかし「正しい」セクシュアリティとは生殖イデオロギー(再生産主義)によって称揚されたものであり、生殖に過剰な意味づけをする限りにおいてジェンダー・カテゴリーが再生産されるという第2章の議論を踏まえれば、セクシュアリティ・コードが「逸脱」というスティグマをもっとも付与しがちであったのはホモセクシュアルに対してであったこと──少なくとももっともその付与行為が目立っていたこと──は明らかである。つまり、セジウィックが『クローゼットの認識論』を書く際のひとつの枠組みとした「謎」──一人の人間の性器行動と他の人間の性器行動とを区別するにはきわめて多くの次元での区別がありうるにもかかわらず、そのうちのただひとつの次元、選択対象のジェンダーのみが「性的指向」というカテゴリーによって示されるという事実(Sedgwick[1990=1999:17])──を、本稿も「謎」として共有し議論をすすめたい。

しかし、このようにその相対性を強調することは、その二項関係の解体を促すことを目的としているわけではない。すでにみてきたように、同性愛(者)というカテゴリーがあることで、多くの男女が名を獲得し、場所を獲得し、社会の「メインの」物語とは別の物語を獲得することができてきた。〈存在〉とは、あらかじめ明確なアイデンティティを持った者がたんに生きて、コミュニティなりに参加していく、といった静態的なものとしてとらえるべきではない。いわば、〈名-場所-物語〉がセットになって、同時に生成するところに〈存在〉が訪れるのである。〈名-場所-物語〉のセットは、社会的・政治的なせめぎあいの中から産まれ出てくるものである。存在そのものが社会的・政治的なものであること、これが社会的構築主義の含意であった。

しかし、社会的に構築されたカテゴリーが、解体することなく一世紀以上にわたって存在し続けてきた理由は、それをポジティヴに引き受け、「別の」物語を生成・継承していくことに成功してきたからだけではない。それはそれに反対するカテゴリーに属する人たちにとって必要なものであったからなのだ。へテロセクシュアリティは、自分自身が何の問題もない規範的な、〈無徴〉のものとしての地位を得るために、棄却したい要素を帰属させる他者、〈有徴〉の項を必要とする。

へテロセクシュアリティは、実体を持つためには──そして欠如によって(by default)、欠如(default)の座、つまり差異を欠くものあるいは異常の不在という座を得るためには、ホモセクシュアリティに依存せざるをえない。(Halperin[1995=1997:68])

無徴の項は、有徴の項にあらかじめ先行し、しかる後にそこから逸脱する要素を有徴の項に帰属させると主張するが、実は逆である。無徴の項が存在するためには有徴の項が必要であり、論理的・構造的に先行している必要がある。脱構築理論のいうこの代補(supplement)の論理1 は、あらゆる二項対立の関係にあてはまるが、本章第1節ではパブリックとプライベートとの境界線が、ホモフォビックな恣意性によってひかれていると論じる。パブリックという「無性」であることを主張する領域は、それが異性愛男性の領域であることを自明とすることによって無性であることができているにすぎない。

同性愛カテゴリーは、したがって異性愛規範を強調してしまう危険なものであるかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスは、この危険に常に対峙しなければならないだろう。それは味方の鎧であると同時に、敵の防御壁であるかもしれないのだ。第2章でも引用したキース・ヴィンセントによるクィア・セオリーの定義は、《「ゲイもレズビアンも人間だから、差別しないで私たちも社会に入れてください」といういわばリベラルな善意に訴える戦略の代わりに、「私たちを差別することによって社会は何を得ているのか」と問い直す》(ヴィンセント[1999:94])というものだった。つまり、ゲイのアイデンティティ・ポリティクスは、「社会」の外に排除されていた同性愛者の居場所を「社会」の中に設けるということを目指すのではない。それはパブリック/プライベートの境界線の恣意性を暴き、異性愛を自明とみなす「社会」の構造を根本から変えてしまうことを導くかもしれないのだ。

本稿の最終章では、ここでふれたさまざまな危険を意識して、クィア・ポリティクスの可能性を探る。それは支配的論理からは棄却されようとする主体たちを守るものでありながら、支配的論理には徹底して抵抗する「基盤」をも用意するという、都合のよい楽天的なヴィジョンかもしれない。しかしこれは、ゲイやレズビアン主体を時代遅れのものであると批難したり、ゲイやレズビアンのような用語はもう使わない方がいいなどと主張するものではない。クィア・アイデンティティですら、つねに使い物にならなくなる危険をそなえている。それは「アイデンティティにこだわるなんて、時代遅れ」のような、「ポストモダンな」敵の手段によく似てしまう可能性がある。むろんそれはポストモダンなのではなく、異性愛文化の〈無徴〉性の中に居座ることで「アイデンティティにこだわらない」ことが可能になっている者たちの言い分にすぎないのだ。

そこで、本章第2節では反本質主義的な主体概念をふまえたうえで、アイデンティティ・ポリティクスが、セクシュアル・マイノリティの存在を守ることの側面を論じたい。名と場所(空間)2 とナラティヴが存在を生成する条件であるのなら、異性愛社会の支配的ナラティヴからは存在を得られなかったその不安を、別の場所、ナラティヴの中で解消する他はない。別の場所、空間の中で、「語る」ための資源を冷静に選び取り、ライフ・ヒストリーを語る。それは、異性愛社会がよそおう「ニュートラルな」空間──実証主義的な「中立の」立場──においては不可能なアイデンティティの構築なのだ。

第1節 パブリックとプライベート

3-1-1.セクシュアリティと公的なもの

セクシュアリティは、公的な領域の外部に位置する、私的な領域に属するとされる。フーコーは、『知への意志』において「抑圧の仮説」を疑問視している。「抑圧の仮説」とは、近代の性道徳は人々に性について語ることを禁止し、そのことによって性エネルギー(リビドー、エロス)は「抑圧」されてきた、というものである。だが、フーコーによれば、近代とは逆に性についての言説があふれかえった時代であり、それはプライヴァシーが語るに値するものとして意味付けられた時代であった。セクシュアリティについて、人は教会で、医師の前で、カウンセラーの前で、ケン・プラマーのようなインタヴュアーの前で、自伝の中で3 、過剰なまでに語り続けてきた。公的領域から排除されたセクシュアリティの領域は、公的な人間(第1章で述べたようにそれは役割としてあらわれる)の背後・内面に帰属され、それこそが「本当の私」であり、それを語ることが「真実」を語ることと同義とされた。

近代はセクシュアリティを「抑圧」したのではなく、公的領域から排除することで、まさに私的領域を公的に作り出すために、排除された要素の帰属先をセクシュアリティと名付けたのである。《そのまさに「効果」として「偽善者狩り(hypocrit hunting)」もまた同時に成立する。人々が「ひそひそ隠れて」語ることを、公的な場で過剰に言い立てることそれ自体が、叛逆的で革命的であるかのような錯覚が、政治的に成り立ったのである》(上野[1996:12])。このような錯覚が「性の解放」という観念を支えたのであり、いわば、この錯覚が支配した20世紀は「性に憑かれた世紀」だったのだ。

「無性」の公的領域が成立することは、それを駆動させるエネルギー、そこから得られる利益を持ち帰る場所、といったものの「内容」を問わないことを可能にする。市場が、貨幣の交換相手が誰であるかを問わないように。このことは逆に、「内面」や「動機」といった目に見えないものの神秘化に加担する。私的領域にあるはずの性的なエネルギーは、公的領域の拡がりに応じてますます重要なものになっていった。

われわれは、セクシュアリティを介してしかエロスに接近しえない(性的な表現はしばしば「エロい」と形容される)。セクシュアリティというコードは、エロスを認知可能、納得可能、制御可能にし、飼いならしさえする。フーコーはセクシュアリティの装置による身体の管理技術を「生-権力(bio-pouvoir)」とよんだ(本稿17-18頁)。しかし、セクシュアリティによって枠付けされたエロスは、この「枠」があることによってその過剰さが逆に明らかとなり、「性的」ではない場面にあらわれてくる。

スラヴォイ・ジジェクは『快楽の転移』のなかで性について論じているが、そこで男性の欲望を精神分析している。男性は、性的快感や女との性的関係に関する領域と、倫理的な目的や非性的な「公的な」活動に関する領域を分ける線を引いて、さらにこの領域をヒエラルキカルに階層化する。女より職業倫理による使命を選ぶというように。

しかし、それでいて男は、女との関係だけが本物の「幸福」や個人的な充足感を与えてくれることに気づいている。何もかもを女に捧げるわけではないまさにそのときに、女がうまく誘惑されるというところに男は「賭けて」いる。女は、男の「公的な」行為という魅力に弱い。つまり、男は実は女のためにそれをしていると感じられることに弱いのだ。ここに示されたものは、宮廷恋愛とは逆のリビドー経済である。宮廷恋愛においては、直接〈貴婦人〉に身を捧げ仕えることを至上の〈使命〉と位置づける。そのため(…)性的関係など不可能、そもそも望まれていない。一方、こちらでは、性的関係を明らかに目的であると位置づけないことによってこそ、性的関係を可能にしている。(Zizek[1994=1996:249-250])

この境界線を引くこと、階層化することといった近代の異性愛男性の行為を、このように記述することは、脱構築理論が代補(supplement)の論理とよんだ運動そのものであろう。すなわち、階層的二項対立は、(1)主導的な無徴項と従属的な有徴項から成っているが、(2)無徴項が純粋に安定した主導的な項として存在できるのは、無徴項の意味には含まれない要素を排除して有徴項に帰属させることができる限りにおいてであり、(3)その意味で、そもそも有徴項の要素ははじめは無徴項の内部にあったものであって、有徴項は無徴項の外部として内部に構築されたものなのである。

本稿ではここまで、へテロ/ホモ、男性/女性、公的/私的などの階層的二項対立を社会的に構築されたものにすぎないとして、脱構築してきた。だが、そのつど再三主張してきたように、このように脱構築することは、その二項関係を破棄してしまうことを主張することと同義ではない。なされるべきことは、このような二項関係を社会の基本構造とすることで誰がどのような利益を得ているのか、誰が余分にコスト負担を強いられているかを分析することである。第1章でも述べたように、近代社会で生活をおくるうえで、公的なものの形式化の性質は必要不可欠なものだ。だがしかし、異性愛社会のホモフォビアを分析していくと、この公的/私的の二項関係を維持することの不安定さに、いやおうなしに直面することになる。やはりそこで働く「排除」の力は、同性愛をスティグマとすることで棄却する、異性愛男性のための負担免除の操作だったのである。

3-1-2.クローゼットの認識論

公的/私的の境界線の不安定さがあからさまに露呈する例として、セジウィックが紹介したアメリカでの裁判判例をいくつかみてみよう。

1973年、アカンフォラという中学校の教師がゲイであることがわかったとき、彼は教育委員会によって職務からはずされる。彼がマス・メディアに対して自分の状況を語ったとき、今度は完全に解雇された。アカンフォラが起こした訴訟を最初に審理した連邦地方裁判所は、彼がメディアで発言したことで彼のセクシュアリティに注意を喚起したことは教育上有害であるとして、解雇を支持した。第四回巡回控訴裁判所は、その判決の理論的根拠を支持せず、彼が公的に発言したことは言論の自由のもと保護されると判断した。しかし、控訴裁判所は、地裁の理論的根拠は退けたものの、彼の解雇を正当化する判決は支持した。その理由は、アカンフォラが就職する段階で履歴書に、大学でゲイのサークルの役員を務めたことを書かなかったという点にある(もし書いていればそもそも雇用がありえなかった)。つまり解雇の根拠は、彼が自分のホモセクシュアリティを明らかにしすぎたからではなく、逆に十分明らかにしなかった点にあるということになった。

この二つの判決はいずれも、教師の同性愛「それ自体」ではなく、それについての情報の取扱いを問題化している。だがそのことによって、彼は《打ち明けることを義務付けられていると同時に禁止されている》(Sedgwick[1990=1999:100])というダブル・バインドによって、たんにゲイの教師として存在する場をあらかじめ禁じられている。

このような一貫性のなさは、法的な場を混乱させている。

1985年に最高裁判所は、ローランド対マッドリヴァー地域学校区訴訟の上訴をとりあげず、カム・アウトするという行為が「公的関心」にあたらないとして、言論の自由のもとで保護される必要はないと判断し、同僚にカム・アウトしたバイセクシュアルの学生指導カウンセラーの解雇を容認した。しかしそのわずか18か月後、同じ最高裁判所が、バゥアーズ対ハードウィック事件で、私的な性生活に他人が干渉する権利はないという主張に、そんなことはない、と判決をくだした。ここでホモセクシュアリティは、《公的な関心事であるとは判断されない。しかし(…)私的な衣の下に存在するというわけでもない》[ibid.:101]。

ここで明らかになっていることは、これらの矛盾した言説・制約が、《ゲイの存在そのものの基盤を掘り崩すことによって、ゲイの人々、ゲイ・アイデンティティ、ゲイの行為を組織的に抑圧しながら、耐え難いダブル・バインドのシステムをコード化している》[ibid.]ということである。このダブル・バインドの状況は、同性愛者を排除する異性愛社会の構造の特徴である。ゲイの存在位置の比喩表現として一般化した「クローゼット」と「カミング・アウト」の二項対立も、同様にこの矛盾の内にある。「クローゼット」から「カミング・アウト」するという直線的なナラティヴは、あたかも明確なアイデンティティを備えた存在者が、プライヴァシーの領域から公的な位置にそのままあらわれてくるかのような、安定した認識の中で語られる。ゲイの解放とは、すなわちカミング・アウトをすることであるといったような、「明るい」展望が抱かれることは多い。だが、教育現場は、司法は、カミング・アウトを公的な言論として認めようとはしなかったのである。ゲイの存在そのものの基盤の危機を理解しない「良識派のリベラリスト」の反応にも、この手の否認はみられる。それは《どうしてゲイの連中は自分の生き方のそんな「プライベート」な部分を引っ張り出してきてうるさく騒ぎ立てなければならないのかといった呆れ顔の文句》(ヴィンセント他[1997:93])のようなものである。カミング・アウトはプライベートな部分をパブリックに持ち出す不謹慎な行為だというわけだ。したがって、ゲイたちは「クローゼット」から「カミング・アウト」への直線的ナラティヴの中で、一貫した明確な存在であるわけではない。つまり、かつて「クローゼット」にいたわたしがいまは「カミング・アウト」の状態で存在する、といったようなものではない。ゲイ達は、カミング・アウトをしたその後でも、毎日、そのことを知らない人と出会わなければならないし、どの相手にはカミング・アウトをするべきでどの相手にはそうしないべきかの計算を行わなければならない。カミング・アウトをすることは新しいクローゼットを作り出すことでもあるのだ。

パブリックとプライベートの境界線の不安定さは、普段は異性愛社会の規範によって隠蔽されている。異性愛社会においては、すべての人が異性愛者であることが自明なこととして前提される。異性愛者は自分のセクシュアリティについて語らないかもしれないが、恋人や配偶者について口にすることははばからないだろう。ところが、同性愛者はそのパートナーの話をしただけで、そのセクシュアリティをパブリックな領域に持ち出してきたとみなされる。

異性愛者のアイデンティティはその中の純粋に性的な部分がこうして防衛的なプライバシーのうちに包まれるのに対して、同性愛者のアイデンティティはすべての部分がセックスと同一視されがちであり、そのためにアイデンティティ全体がこのプライバシーによって覆い隠されてしまうのである。(…)ストレートの男性にとっては、プライバシーとは特権のことである。ゲイの男たちにとっては、それはクローゼットなのだ。(ヴィンセント他[1997:93-94])

今まで何度も確認してきたが、ホモセクシュアル・カテゴリーは、へテロセクシュアルが「無徴の」「あたりまえの」前提として存在するために必要とされた生産物である。セクシュアリティをテーマに、それもセクシュアル・アイデンティティをテーマに研究をしているというと、決まって帰ってくる反応のひとつが「自分はセクシュアル・アイデンティティなんて持っていない。そもそもあまり性欲がないし……」といったものである。だが、自分を異性愛者だと特別意識しなくてすむという事実が、あらかじめのコスト負担免除を施された異性愛社会の権力の構造をあらわしている。むしろ「自分は異性愛者である」ということをことさらに主張することほど、その主張に疑いのまなざしを向けさせることはないであろう。

この「公的な」空間の中では、同性愛者であることは、セクシュアリティが彼/彼女の存在のすべてであることと同義のようにみなされる。彼/彼女はいかなる公的な役割として発言したり行為したりすることもできない。つまり《ホモセクシュアルが言ってるんだ、ホモセクシュアルがやっているんだという色眼鏡を通して理解される》[ibid.:101]ため、同性愛者「として」存在する以外なくなってしまう。キース・ヴィンセントによれば、ワープロの辞書にも、『広辞苑』にも、「ホモ」や「同性愛」は登録されているが、「へテロ」も「ストレート」も「ノンケ」も「異性愛者」も、そして「異性愛」自体も載っていない。これは、「異性愛」とは、言葉の網の目の中に一画を占める説明されるべき〈部分〉ではなく、あらゆる言葉の使用に際しての前提条件であることを示している。《この「あらゆる言葉」の中には「同性愛」という単語も含まれるのだ。つまり(…)ゲイの男性たちは語ることができず、語られることができるだけである》[ibid.]。

3-1-3.投射と棄却

パブリックとプライベートの区別が排除によって成り立つこと、それが権力関係を構成していることを発見し、批判してきたのは、フェミニズムの理論である。フェミニズムは、近代の家父長制資本主義社会が、もっぱらパブリックを男性の領域として、プライベートを女性の領域として定義し、女性を家庭に閉じ込めてきたことを問題化することに成功した。女性の居場所が家庭であることは本質的に決定されていることではなく、パブリックというものの、外部へと棄却する力によってそこへ居させられているのだということを明示したテーゼが、「個人的なことは政治的である」というモットーである。

第1章でも触れたことだが、資本の蓄積によって労働市場における自由労働システムが誕生すると、市場を流通する商品の生産労働が家産制のシステムから切り離され、家庭の領域はもっぱら労働力の再生産の場所として特化することになった。生産労働と再生産労働への分割は、そのまま男性と女性の分割に重ね合わせられ、性別役割分業をもたらした。フェミニズムは性別を基準にした役割の配分を批判してきたが、なかでも批判力を持った最大の概念遺産は、マルクス主義フェミニズムが提示した〈家事労働(domestic labor)〉概念である。家事労働という概念によって、家事労働も労働であること、家事労働は不払い労働であることが明確になった(Delphy[1984]、上野[1990])。上野の分析によれば、家事労働は、その本質規定が私的な不払いの労働であることによって市場化されないのではなく、市場化されないことによって私的な不払い労働にとどまっているのである。

どんな労働が市場化され、どんな労働が市場化されないかは、歴史的条件で変わるから、仮に将来「家事労働」と呼ばれているものの一部が市場化されることが明らかになれば、この「生産的」と「不生産的」の境界線は、どんどん動くことになる。その意味でも農業労働が「生産的」であり、「家事労働」が「不生産的」である、というのは「本源的規定」ではなくどこまでも「歴史的規定」にすぎない。[ibid.:54]

家事労働が本質的に不生産的で私的なものだという独断を相対化すると、ここにも代補の論理に特有の「遠近法的錯角」が見出せる。市場から排除されたその後で、それは私的な交換価値のないものであるという「本質」を担わされるのである。そして、この不払い労働が労働であるという事実を、遠近法の消尽点の彼方に隠蔽するため、「母性」や「愛」というヴォキャブラリーがイデオロギーとして呼び出されるのである。

このようなパブリックとプライベートの区別は、第1章で参照した竹村和子が「〔へテロ〕セクシズム」という概念で表現したように、セクシュアリティの領域における異性愛主義(ホモフォビア)と、ジェンダーの領域における性差別(ミソジニー)を両輪として駆動する異性愛男性社会の論理であることがわかる。パブリックな領域が「無性(sex free)」の領域であることは、それが男性の領域であることを暗黙のうちに前提している。性的に〈有徴〉である女性がパブリックな領域に出現すると、そこに性的な雰囲気が見い出される4 。セクシュアル・ハラスメントを、異性愛主義男性による防衛反応として論じることもできるかもしれない。ある男性が、仮に職場の女性に性的な関心を持たなかったとしても、その職場で生じたセクハラ事件に対して、「性的な雰囲気をふりまいたその女性の側にも落ち度があったのではないか」などと、加害者の側にシンパシーを感じることはありうるかもしれない。この男性は、自分がセクハラ行為を動機付けられていないにもかかわらず、その空間で作動している防衛メカニズムを「理解」し、加害者の動機に「投影」しているのだ。この空間で作動するメカニズムは、性的なものを外部に棄却するという論理だが、この論理は「性的なものは外部へ棄却されるだろう」という予期を構造化する。この予期は、その予期そのものを予期することを構造化し、「外部へ棄却されたものは性的なものだろう」という論理をも作動させる。このときパブリック/プライベート、内部/外部の区別は、棄却されたものの内なる差異を抹消するように、複合性を縮減するように機能する区別となっているのだ。

アイデンティティ・ポリティクスは、したがって、この区別を錯乱させること、トラブルをしかけることにならなければ、危険なものになってしまう。ホモセクシュアル・カテゴリーが異性愛男性支配の論理を強化する発明品だとしたら、その論理の内部で存在を主張することは、おのずとその存在根拠を脅かすことにつながってしまう。《カミングアウトとは必然的に公のものと私秘的なものとの境界線を再定義することであり、その再定義の過程においてこそゲイの主体というものが出現するのである》(ヴィンセント他[1997:95])。異性愛男性の市民主体というものは、そもそも自己投影的な棄却の帰属対象として、同性愛者と女性を必要としている。それは妄想的(paranoiac)な投射(project)であるがゆえ、投射される側と投射される「像」とは関係がないのだ。このような「メインの」文化の論理を明らかにすることによって、その論理を取り替え、別の主体の可能性を探るチャンスが出てくるのである。

パラノイア的投射は、精神分析学的には主体の存立構造を基礎づけている。第2章で、シンギュラリティとリベラリズムとを結び付ける倫理学を構想したが、リベラリズムがしばしば衝突する主張には、この主体の存立構造とかかわる二つの種類の表現がある。ひとつめは、「主体が『自由』であるとはいかなる事態を指すのかが明確でなく、『構造』によって規定されている可能性は常にありうるため、リベラリズムは現状の無批判な肯定を帰結する」というものである。このような主張の前提としていることはもっともであり、本稿と視野を異にするものではない。かつては逆にリベラリズムの立場から、「あらゆる主張・立場が遍在する権力関係によって規定されている」という「外部のないフーコー的な」構築主義が、「あらゆる批判を無効にしてしまう現状肯定」としてしばしば批判されることになった。しかし、その後のリベラルな左翼運動のもっとも理論的な典拠となったのがフーコーの著作であったことは、かつてのリベラルたちの予想を超え出ていたことだった5 。主体が構造に規定されることと、主体のシンギュラリティ=尊厳が構造に抵抗することで擁護されうることは矛盾しない。構造に対する批判は、シンギュラリティの尊厳が脅かされないことを主導的な目的としてなされなければならない。

ふたつめのリベラルな主張への反発、リベラリズムの基本的な考え方を反発を喚起するような言い方になおしてみた「他人に迷惑をかけなければなにをやってもいい」という主張への反発は、「おまえの存在自体が迷惑なんだよ!」というスキャンダリズムに似た暴露である。「存在自体が迷惑」であるという矛盾に満ちた言明は、まさにその矛盾が内包されていることによって共感を呼び起こすような、その言い回しによって、「迷惑をかけられる」側の存在が、その存立の構造が不安定な矛盾の内にありながら、むしろそのことを判断停止のままに置くことで連帯していることを暴露している。「他人に迷惑をかけなければなにをやってもいい」というリベラリズムの要約が、その対立者にもリベラルにも「嫌な感じ」を与えるのはなぜなのか。じっさい、この要約の中には「嫌な」要素などまったくないのだ。そこに「嫌な」ものを投射するのは、自由の存在によって自分の存在が脅かされると感じてしまう主体の存立構造の方なのだ。

自己投影(projection)による棄却(abjection)という主体の構成は、認識によって〈世界〉を所有するというそのありかたによって、家父長制や帝国主義の正確な隠喩となっている。たとえば、男の買春や企業の買春接待はOKのくせに妻や娘の援助交際は不愉快に感じるような中年男性6 のまなざしは、「汚れ仕事」を男である自分が引き受けることを美徳とし、植民地としての女の身体は清潔で美的でなければならないと、女の身体をオリエント化=審美化すること、つまり自己像の反転した鏡像を投影することで見い出す、帝国主義的・家父長制的視線を、構造として内蔵している。

異性愛男性は、女性を差異として構成し、自己の欲望を正当なものとすることで主体化するのと同時に、同性愛者を非差異の存在として構成する。同性愛の欲望は、異性愛男性のそれとは対称的に、「受動的な肛門性交」として表象され、自己と違ったところのないものを欲望するナルシスティックな自己没頭として批難される。たとえば上野千鶴子もかつては、へテロセクシュアルは異質なものどうしの関係性を結べるが、ホモセクシュアルは同質的なものどうしの、異質性を排除したナルシシズム的性愛であるとして、ホモセクシュアルを「差別」することを公言していた(上野[1986])7 。リー・エーデルマンは論文「鏡と戦車」のなかで、ホモフォビックなそのような「主体化」──自己の反転した鏡像を欲望するような能動的男性主体の形成──を、異性愛男性のパラノイアックな自己投影的棄却にすぎないと批判しながら、似たような論理によって主体を構成しがちな「エイズ・アクティヴィスト」を批判している。アクティヴィストたちはしばしば、政治的でないゲイたちを「受け身的」な「ナルシスト」として批難し、「アクティヴィスト」のアイデンティティを補強する。たとえばラリー・クレイマーは87年、ボストンのレズビアン&ゲイ・タウン・ミーティングで講演した際、《あんたらにはうんざりだ。あんたらの受け身な態度(passivity)がグルになってせっせと(actively)自分達の大量虐殺を推し進めているんだ》と宣言した8 。だが、支配的言説に抵抗する際、「アクティヴィスト」のアイデンティティを形成するのに、彼らのコミュニティを支配的言説と同じ論理・レトリックでスティグマ化するのは危険なことである。市民としての主体的地位を獲得することは「ポリティクス」にとって価値のあることかもしれないが、そのような「主体」はつねに、ナルシスティックな「受け身性」の、自己投影的な棄却によって「主体」となっている。支配的論理のそのような内面化は、《たとえ疫病のさなかにいるとしても、まさにその論理の運用によって歴史的に抑圧されてきたゲイ・コミュニティにとっては悪魔に魂を売るファウスト的お買い物とならざるを得まい》(Edelman[1994=1997:274])。

ゲイのアイデンティティ・ポリティクスは、ゲイの主体というものを出現させることになった「メインの」文化の論理を明らかにすることによって、その論理を別のものに取り替え、別の主体化の可能性を探るようなものでなければならない。最終章では、そのようなアイデンティティ・ポリティクスの可能性を、「クィア」主体に見い出して論じることになる。そこでは、なんらかの純粋な「本質」を設定し、そこから逸脱する要素を棄却していくような主体化の論理は否定されるべきだ。自己を棄却された要素に対して差異的に構成するとき、そこで棄却されるものは他者性であろう。このように考えると、むしろ他者への志向性は、上野が「ナルシシズム的性愛」とよんだホモセクシュアリティの方により多く含まれているのであって、へテロセクシュアリティはむしろ他者棄却的なのだといえるかもしれない。むろん、ホモセクシュアルがすなわち他者を棄却しないユートピスティックな主体だということではなく、セクシュアリティという近代の装置が「へテロセクシュアルは否-ホモセクシュアルである」という形式で定義するような「枠組み」によっては到達できないような他者性(シンギュラリティ)が棄却されたゴミ捨て場として、ホモセクシュアル概念は機能しているということである。へテロ/ホモの二元制は、「Sはへテロである」「Sはホモである」という記述を剰余するシンギュラリティを棄却する。クィア・ポリティクスは、第2章で考察したような、シンギュラリティとリベラリズムを結び付けるような倫理学を導くものであるだろう。

しかしクィア・ポリティクスというものがこのように要請される必然性はいったいどこにあるのだろう。シンギュラリティへの渇望は、確実にこの時代に存在している。「Sは~~である」という定義の妥当性、存在の一貫性の希求、すなわちアイデンティティというもののもたらす信頼感は依然として捨て去ることのできないものだ。だが、それでは得られないような安心感は、シンギュラリティのリベラリズムによってしか埋め合わせができない。次節では、アイデンティティとシンギュラリティの複雑な関係を見通すため、同性愛者たちの「自分語り」を中心に考察する。まずは、「メインの」文化からは排除されるアイデンティティに存在することの安心感を与えなければならないのだ。


1 高橋哲哉[1998:86-87]参照。

2 近代社会では、空間は場所から切り離されたものであり、たとえばマス・メディアのナラティヴを通じて、場所的には離れた主体が同一空間に位置付けられることになる。したがって、ここでもゲイ主体の構築される「場所」といわずに「空間」というべきなのかもしれない。だが、セクシュアル・マイノリティたちの主体は、近代のパブリックに関する言説によってますますローカルなもの、プライベートなものにさせられてきたのであり、その意味でここでは「場所」というローカリティを含意する用語を用いた。

3 《実際、時にトランスセクシュアルにとって自伝を書くことはほとんど義務であるかのように思えることがある(実際、それはしばしば、正しいストーリーを語るかどうかで、どんな外科手術が必要かが決まるからであるが!)。どうもリチャードは、部分的にはカタルシスのために、また部分的にははっきりとさせたいために、それに出版もできるかもしれないとおぼろげに考えながら、自分のストーリーを書いたようだ。(…)誰もがすべて、こんな「セクシュアルな自伝」を書くわけではない(まして、この後さらに100ページも続くようなものは)。しかし、リチャードのように、自分たちのセクシュアルな生活が苦痛や苦悩の源だと感じている多くの人びとにとって、ストーリーを語ることは、文字どおり、そうした生活と「おりあいをつける」ことなのだ》(Plummer[1995=1998:67-68])。

4 田原総一郎はかつて、三井マリ子との対談で、「女が職場進出するのは、男風呂に女がハダカで入ってくるようなものだから、セクハラぐらいは覚悟して当然だ」と発言した(上野[1998:255])。

5 デイヴィッド・M・ハルプリンは、80年代後半に活発になったエイズ・アクティヴィズムに活発に関わってきた人々を対象に、90年に調査を行った。「政治的発想の、もっとも重要な知的水源をひとつだけ挙げよ」といった質問に、そこでは、ミシェル・フーコー『性の歴史』の第1巻が挙げられた。これはフーコーを批判するリベラル左翼にとって、驚くべき結果かもしれない。《わずか10年前でさえ、フーコーが政治的聖人になりつつあるのに気づいた左翼の哲学者や文学批評家はほとんどいなかっただろうし、ましてや彼が、大衆的抵抗運動の新たに戦闘的な形態の創始者として祭り上げられようなどとは、誰も思わなかっただろう。『性の歴史』の第1巻で展開された、「権力は遍在する」というフーコーの説は、人々から巧みに自由を奪い、政治的抵抗を無意味にしてしまうものだ、というのが、多くの左翼の受け入れた考えだったのだから》(Halperin[1995=1997:30])。

6 「オヤジ」という一般化した蔑称を使用することを小谷野敦[1999]は批判している。一般化した差別語は、類型的な外部帰属による切断操作にしかならず、差別者のカタルシスを導くことにしかならない。

7 この上野の立場に対する伏見憲明[1991=1998:127-130]の批判によれば、〈他者性〉に動機付けられないエロスはありえず、したがってホモセクシュアルも同質性をではなく他者性を志向しているものである。そもそも、異質なものどうしのぶつかりあいによって新しいものが生産されることの価値を称揚するような態度こそ、マルクス主義フェミニストの上野らしからぬ近代資本主義的感性ではないかと揶揄する。上野は後に《わたしは同性愛差別者だった》と《自己批判》をし、自分の嫌悪していたものはホモセクシュアルではなく《ホモソーシャルだったということがわかるようになった》(上野[1998:242-244])と訂正している。ゲイの敵がホモフォビアで、それにミソジニーがからんでいるとすれば、敵は《もっと広義にゼノフォビア(異質嫌悪)と言ってもいい。ホモソーシャリティを維持するための他者嫌悪、異端排除が敵だとすれば、ゲイとフェミニズムは「共通の敵を持つ」と言っていいかもしれない》[ibid.:245]。

8 Edelman[1994=1997:273]での、Kramer[1989:163]からの引用。