序文

本稿では、セクシュアリティ領域について社会学的に考察する。近代人は、セクシュアリティをめぐってさまざまなコミュニケーションや行為を行ってきた。またそれらによって概念が蓄積され、規範が生じ、そのおかげでまたコミュニケーションや行為がますます可能になっていった。

われわれは、セクシュアリティについて、目下のところ「性行為」を行うことでその領域に接近することができる。われわれは性行為において、肛門、膣、口、その他あらゆる身体上の器官と、乳房、ペニス、クリトリス、指、手、あるいはまなざしなどの身体的な要素を、さまざまな種類の体液やそれに似せられた液体を介するなどして密着させる。また、自我が破壊されたり他我を破壊したりするようなエクスタシーが体験されたりされなかったりすることが性行為にはともなうことをわれわれは知っている。それは妄想のように、精神の内部のみでもよく生じることである。セクシュアリティ(sexuality)には、性別を意味するsexという文字が刻印されていることからもわかるように、それは性に関するなにごとかであるということをわれわれは知っている。性行為に際し、性に関する「指標」がそれを「知る」ための資源として総動員される。

このように、近代人はセクシュアリティについて知っていて、だから行為でき、行為することによってまた知ることができる。だが、「性に関する指標」をいかにしてひとは知るのであろうか。われわれはあたかも、あらかじめそれを知っていたかのようにふるまってはいないだろうか。そもそもわれわれはそれを本当に知っているのだろうか。そして「本当に知る」とはいったいいかなることを指していえるのだろうか。

むしろ、ひとは「性についてあらかじめ知っていること」をセクシュアリティとよんでいるのであって、「セクシュアリティというものを知る」ことなど、そもそも不可能なことであるようにも思える。われわれは性行為によってエロスの快楽を最大限に引き出そうと試みる。しかしエロスについてわれわれが知っていることなど、なにもないのではないか。腕時計を変えてみる、ダンスに魅了される、煙草を吸ってみる──これらはセクシュアリティとは関わらなくても、ひょっとしたらエロスと深く関わった行為かもしれない。しかしそれは知りえない。ペニスを膣に挿入し、射精する、フェラチオをして射精に導く──これらはセクシュアリティとは関わっていてもエロスからは最も遠く離れているという可能性を常にはらんでいる。いや、エロスから「離れている」などという表現(これは距離的なものを意味しているのだろうか?)では理解ができないような〈無限定〉のものがエロスなのであって、それらはエロスから離れているという仕方でエロスと関わっているなにかであるといえるのかもしれない。これは、セクシュアリティの領域ではエロスは作動しない、ということではない。エロスは世界の至る所で作動するが、セクシュアリティは性的にしか作動しない。われわれはエロスに常に巻き込まれながら、それを呼吸し、「知って」いる。しかし、それについてはいつも沈黙しなければならないようなものがエロスなのではないか。

ひとは、沈黙を強いるような無限の存在に対して、魅了されるのと同時に不快感や恐怖を感じることもある。それは無限の宇宙の深淵であり、予期に訴えられないアノミーのもたらす不安である。セクシュアリティという「知識」は、この不安への防衛的な対抗処置なのではないか。エロスという〈生命〉と〈存在〉の場に接近しようともがきつつも、それが「知りえない」ものであるがゆえに、知るための準拠点を設定して訓致しようとする営み、その生産物がセクシュアリティなのではないか。

無限定のものに準拠点を設定し、概念を生産すること。人間は古来からたえずそれを行い、知識を蓄積してきた。概念によって知ることができるようになった人間たちは、概念によって開示された現実と関わり、他者と関わってきた。あるいは、現実を変化させるため、新しい現実を開示するような概念を意図的に発明もしてきた。つねに概念は、現実と関わることを可能にしてきたが、しかし、それによって関わることができない現実も同時に生み出してきた。セクシュアリティという知識もそういうもののひとつである。セクシュアリティによって、性器から快楽を得られること、それが性に関わるものであること、われわれは性や性別といったものをめぐって快楽にまつわるファンタジーを抱くべきであることを知ることができた。だが、むしろそれはセクシュアリティという概念が開示してしまった「現実」であって、その「現実」が開示されたことによって知ることができなくなってしまった〈現実〉は、はかりしれない無限の襞の内側に隠されてしまうことになる。われわれはエロスに近付こうとして、そこから遠ざかってしまう。いや、接近しえないものとしてのエロスを、セクシュアリティというたかだか「知識」にすぎないものの閉じた体系の内に矮小化してすませてしまう。

知識は、体系として現実を生産する。そのこと自体を批判すべきではない。現実は知識の内には無いなどといって知識をはなから放棄するような態度は、いかなる現実とも関わりあうことを不可能にしてしまう。現実と関わろうとする時、なんらかの知識をわれわれは必要としている。大切なことは、知識の体系性の優劣ではなく、いかなる現実と関わろうとするかである。しかし、現実が産み出される時、また同時に触れることのできない現実が産み出される時、そこに権力の契機が不可避的に介入することがある。それは、知識が産んだ現実を準拠点として権力が作動するということでもあり、また権力の布置が、現実を産む知識の体系そのものとなっているということでもある。われわれが本稿で主に問題にしたいのは、そのことである。

セクシュアリティの社会学は、それゆえ、知識と言説と権力の関係を対象にしてきた。セクシュアリティという知識(の体系)は、主導的な規範から逸脱するような存在を排除しながら現実の生産を行ってきた(逸脱的存在が存在するように現実が生産されてきた)。本論で論じるように、性科学(sexology)においてホモセクシュアリティ概念の誕生は、ヘテロセクシュアリティ概念の誕生に10年程先行しているのだ。これはマジョリティとマイノリティという二項対立が生じるメカニズムに関わることだが、マジョリティの存在が規範的で自明で主導的であるようにみえるためには、マジョリティの〈内部〉には引き受けたくない要素を、外部に排除しなければならない。そのとき、「あらかじめ存在していたマジョリティ」というみせかけをつくるために、マイノリティを外部につくり出さなくてはならない。要するに、排除された要素を引き受ける帰属先──〈外部〉として境界線を引かれ、対象化されるもの──内部から投影されたもの・内部が生産したものにすぎないのだ。まず外部が(内部によって)生産され、しかる後に「内部」が安定したものとして存在しうる。

知識は、このように排除の力をもっている。本稿でセクシュアリティを扱うのに、マイノリティの問題を中心に論じなければならないのはそのためである。本論で論じるようにセクシュアリティという知識の総体は、権力の装置である。生命を持って存在するものたちがエロスと深く関わりながらもセクシュアリティの装置に規制され、方向付けられ、抑圧され、欲望を増大させられることの謎は、権力と存在者のぬきさしならない駆け引きの中に見い出される。われわれは、セクシュアル・マイノリティという、権力とエロスとの交錯のただなかにおかれた存在者たちとともに考察することによって、社会と知識、権力と欲望の謎に取り組もうと思う。われわれが目指すのは、接近することの不可能なエロスを神秘化して立ちすくむこと──沈黙することでしか指し示せない否定的なものとしてエロスと関わるような否定神学的態度──ではなく、セクシュアリティという「ひとつの」現実を突破して、多様な現実を切り拓いていくヒントを見つけ出すことである。

レズビアン&ゲイ・スタディーズが採用している視点は、社会的構築主義とよばれることが多い。基本テーゼは、「現在私たちが知っている〈同性愛〉(homosexuality)は、超歴史的・普遍的に存在しているものではなく、19世紀西欧で発明された特殊なものだ」というものである。それ以前には同性間の性行為がなかったという意味ではない。「セクシュアリティ」というコードで、行為者の内面・人格を理解する作法が近代特有のものだということだ。内面・人格は行為に先立ってあらかじめ存在する原因で、行為はその表現・表出、つまり結果であるとみなされた。同性愛行為をするものは、同性愛者だ、というわけである。

ここで、構築主義を用いたアプローチを、ふたつのモーメントに分けて整理することで議論の見通しをたてておこう。ひとつはFoucault[1976=1986]、Weeks[1977]以降活発になったレズビアン&ゲイ・スタディーズであり、ふたつめは90年代以降のいわゆるクィア理論である。

1970年代以降のレズビアン&ゲイ・スタディーズは、同性愛者への差別に抵抗する解放運動と連動することで、アイデンティティ・ポリティクスを主軸にすえている。これは社会学においては、「逸脱者」という一義的なスティグマを、付与する側もされる側も共有しているような「社会状態」(あるいは「規範」)モデルの想定への批判に対応する。マイノリティとしての同性愛者たちは、差別的な「ホモ」の名を捨てて、「ゲイ」として、肯定的な意味の(再)付与をともなった「カミング・アウト」をし、「クレイム申し立て」を行ったのである。

これに対し90年代以降のクィア理論は、(1)「ゲイ」というアイデンティティが、そもそも差異をはらんでいるはずの集団を代理/表象(representation)することへの疑念、(2)個人が統一的で一貫した存在であるという近代的想定、すなわちアイデンティティ概念そのものへの疑念、これらを主軸にすえている。つまり、《集団の表象/代表として使われる「アイデンティティ」のあり方と、個人の存在に関わる個体の「アイデンティティ」に対する懐疑という二つの問題》(砂川[1999:141])がクィア理論の背景にあるのだ。

クィア理論(Queer Theory)1 は、テレサ・デ・ラウレティスが1990年に主催した同名の学会に由来する。彼女は、それまでの gay and lesbianという名称が and という接続詞で結ばれることで差異が無いかのようにあつかわれ、一般化されることを危惧したという(de Lauretise[1991=1996]、デ・ラウレティス[1998:68])。いわば、差異を重要視する概念としてQueerを持ち出したのだ。セクシュアリティにとっての差異は、それまでは「ホモ」と「ヘテロ」(外部と内部)の差異であったが、クィアはセクシュアリティ概念の指し示す現実のうちに、そもそも多様な差異がありうることを表現している。内部/外部、中心/周縁という二項対立が、多様な差異に向けて切り拓かれていく可能性を示唆しているのだ。

このように表明されはじめたカテゴリーに対する反本質主義的疑念は、フェミニズムにおいても尖鋭化されてきたといえる。ジュディス・バトラーは、フェミニズム理論が「女というカテゴリー」を前提としてきたことを徹底して批判している。フェミニズムは、解放されるべき政治的主体を代理/表象するために、〈女〉カテゴリーに立脚する。しかし、〈女〉というカテゴリーそのものが、批判の対象となっている当該社会システム(=男女二元論のシステム)から付与された名である以上、このカテゴリーを使用することは当該システムの再生産に繋がってしまう。

政治的、言語的な「表象」領域が、主体を形成するさいの基準をまえもって設定してしまい、その結果、主体として認知可能なものだけが表象されることになってしまう。換言すれば、表象されるまえに、主体として存在する資格をまず満たさなければならないということになる。(…)そうなるとフェミニズムの主体は、解放を促すはずの、まさにその政治システムによって、言説の面から構築されていることになる。(…)「女」を解放する目的があるからといって、無批判にそのようなシステムに訴えることは、明らかな自滅行為となる。(Butler[1990=1999:20])

男女二元論システムは認識論的な仮定でしかないのに、それが本質的な実在であるかのように《存在論的な見せかけをとるカテゴリーを生産し物象化している》[ibid.:8]。

物象化されたカテゴリーを引き受けられない、これらのポストモダン的身体の想定は、きわめて現代的なリアリティを備えているといえる。だが、法/言語の前での一貫した主体を前提とするような、マイノリティの「運動」にある種の困難をもたらすことにもなりかねないため、アイデンティティ・ポリティクスの立場から、反本質主義的言説に対する異和も表明されるようになる。「女は存在しない」と言ってしまっては、現実的、具体的、物質的不平等があるときに、逆に現実の状況を隠蔽することに荷担してしまうのではないか?「男/女」の二項対立システムを使用する社会に対して、「女」の立場を強調することは、その〈区別〉を再生産することに荷担する。しかしその区別を使わないことには、その区別によって編制された社会に対して批判力をもたない……。

カテゴリーは捏造されたものにすぎない、すべての人間が変態(queer)である、といってしまったとき、異性愛主義によって編成されたこの社会においてもっとも周縁化され、存在の不安定さに直面している同性愛者たちの「存在の基盤」が脅かされるのではないか。異性愛者たちは、自分のアイデンティティなど問うこともなく安心して生きている。そのような中で、「同性愛なぞは捏造されたカテゴリーにすぎない」というメッセージは同性愛者たちにとって抑圧的に働くのではないか。

本稿では、以上の問題意識を踏まえ、クィア理論以降の新しいタイプの〔アイデンティティ〕ポリティクスの可能性を探ってみたい。

このような見通しは、当然「クィア理論以後」可能になったもの──現代・現在的視点を過去へ投射した物語形式──であって、80年代に行われたすべての議論がアイデンティティを本質的なものとして捉えたアイデンティティ・ポリティクスである、などという乱暴な議論をするわけにはいかない。けれど、時代・社会状況の変化や、構築主義における(論争的なものも含めての)議論の蓄積などから、このような局面の移行をあとづけることは可能である。

たとえば草柳千早[1998]は、1970年代後半にキツセらによって提案された、構築主義による「クレイム申し立て」研究の歴史的性格を問題にしている。草柳によれば、それは70年代のアメリカという特殊な状況を前提としたものであって、90年代後半の日本にはそのまま適用することができない。70年代型の「クレイム申し立て」は、「逸脱者」たちのカム・アウトを必要としている。そしてカム・アウトは、「逸脱者」というスティグマを反転させることで抵抗する、いわば「強い主体」によってなされる。《社会の「問題」(society's ‘problem’)であった者たちは、今や社会を「問題」(society as ‘problem’)として定義する。もはや「問題」であるという了解が共有された「社会状態」を前提とすることはできない。何が問題なのかは、「問題」があると主張する人びとの定義に依存する》[ibid.:22]。ゲイ達は、カム・アウトによって肯定的なアイデンティティをスティグマに置き換えることによって、認識の変更を迫り、また自己を強い主体に築き上げたのである。

しかし、90年代の日本において、そもそも社会へ「クレイム申し立て」を行うこと自体が一般に馴染みのない経験であり、「クレイム申し立て」というカテゴリーをあらかじめ想定して適用することは、研究者=専門家による恣意的な現実の裁断になりかねない。現在、よりリアルであるのは、もっと曖昧な過程であろう。

性的マイノリティにとって自己を定義/表現するときに与えられている当の言葉、カテゴリーの体系と自身の経験とが微妙に乖離しているという尖鋭な感覚(…)。与えられている言葉で語ろうとすれば、まさにその言葉が、自己のうちに、それによっては語りえないもの、常に語り残されてしまうものを浮かび上がらせる。(…)またそれにもかかわらず、主体はそうした言葉の内部でアイデンティティを求めて自問し語ることへと促されている。そしてさらには、そのように促されてしまうことそのものが疑問に付されている。[ibid.:29-31]

この局面の移行は、「クレイム申し立て型構築主義」(本質主義的構築主義?)から、「ポストモダン型構築主義」への移行とでも表現できるかもしれない。「言葉の内部」においてコード化されたアイデンティティは自己そのものではなく、「語りえない」自分そのものはコードの外部にある、という感覚は、先に「物象化されたカテゴリーを引き受けられないポストモダン的身体の想定」とよんだものである(本稿第2章では、この外部に位置する「自分そのもの」をシンギュラリティ(単独性)として論じる)。

解放運動の側面からは、この二局面は〈段階論〉として統合されることがしばしばある。浅田彰や河口和也の発言に見られるように、これは《アイデンティティが個人の存在と経験を政治化する唯一のものである》(河口)(浅田他[1997:31])という前提に基づいていており、アイデンティティ・ポリティクスを戦略的に採用する「戦略的本質主義」の形態をとる。浅田[1991]は、マジョリティとマイノリティ、中心と周縁という二項対立を相手にするときには、段階論、すなわち《二重の戦略》が必要である、という。第一の局面は《転倒の局面》であり、二項対立の優劣関係をひっくり返す必要がある。しかし続いて第二の局面が必要となる。優劣関係の転倒は、もともとの対立の土俵の上で動いているにすぎない。《重要なのは、そういう転倒の後、それを通じて、マジョリティ対マイノリティといった対立の図式自体、その図式を支えている土俵そのものを掘り崩していくことだ。この二重の操作をディコンストラクションと呼ぶのだ》[ibid.:73]というわけである。

本稿は、この〈段階論〉が段階を踏むのではなく、同時に行われる──ひとつの出来事の二つの位相として──ことの可能性、そして差異が否定されるのではなく(差異なきディストピアを慎重に拒否しながら)、肯定していけるような可能性を探るためのヒントを提出できることを目標としている。クィアを、セクシュアリティを突破する概念として使用しながらも、それによってエロスに向けて解放されるといった楽観的な理想化を行うべきではない。われわれがたとえセクシュアリティに規制され、巻き込まれていたとしても、たえずセクシュアリティの装置を超え出ていこうとする過剰なエロスを発見していこうとするかぎりにおいて、セクシュアリティの脱構築は可能となるだろう。

第1章では、「セクシュアリティ」という装置が近代の発明であるというテーゼをふまえたうえで(第1節)、それが異性愛を「自然」なものとみなす「常識」(強制的異性愛主義)とどのように結びついているか(第2節)を探り、同性愛者に対する差別の構造を明確にしておきたい。

第2章では、ジェンダー概念がクィア理論においてどのように検討されてきたのか、構築主義の立場を徹底させて検討し(第1節)、構築主義を徹底させることがいかなる倫理的態度に貢献しうるのか(第2節)、検討したい。

第3章では、まずセクシュアリティを発明した近代が、いかに恣意的に「公共性/私秘性」の境界を決定しているかを示し(第1節)、同性愛者たちがこの近代社会のなかでいかに「存在論的不安」を抱えさせられ、またそれを克服していくかということを見ることで(第2節)、アイデンティティ・ポリティクスの実際を検討したい。

以上の考察をふまえ、終章では、反本質主義的な観点をふまえながらいかに「ポリティクス」の可能性を開いていけるか、クィア・ポリティクスの可能性を探ることにしよう。


1 queer はもともと「変態」を意味する差別用語であったが、それを「敵」から盗用し、肯定的な語へと転化したものである。英語で最も近い語は strange だろうか。ウィリアム・バロウズの小説 Queer の邦訳タイトルは『おかま』であり、手塚治虫の『珍アラビアンナイト』の英訳タイトルは Queer Arabian Night だった。